沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)
宜野湾市森の川
宜野湾市には、森の川(ムイヌカー)と呼ばれる由緒ある泉がある。
森川公園になっている。石積みが見事な泉である。この辺りは湧水がとても多いところだ。水源は、この公園の北側の高台に広がる米軍普天間基地だ。水路から、こんこんと水が流れている(左)。その昔、この森の川に、奥間大親が来たところ、天女が水浴びをしていたので、木にかけていた衣を隠した。困った天女を家に連れて帰った。
一男一女が生れ、その子・察度(サット)は後に、中山国の王に就いた。まだ琉球が統一される前である。だから、森の川は羽衣伝説の地として知られる。
察度王は、当時の明国に朝貢し、中山国王として任命してもらう冊封(サッポウ)関係を結んだことで知られる。
この水路の奥に、実は円形の石積みの囲われた空間がある。この日は、シルバー人材センターのおじさんたちが、清掃をしていた。何か、誇りを持って丁寧に清掃していた。
「ここは囲われているから、水浴びをする場所だっただろうね」と説明してくれた。左写真では、残念ながら円形が見えない。上から見ると見事な円形である。「沖縄戦で壊されたのですか?」と聞くと「いや、少し壊れたところは、白い石で復旧してあるが、他はほとんどは壊れずに残ったので、昔からの石積みですよ」という。
沖縄のあちこちで、城跡をはじめ石積みの遺跡をみるが、ほとんど壊されて、戦後に復元させたものだ。でもここはよくぞ残ったものだ。なぜだろうか?
多分、日本軍が陣地を造っていたのは、宜野湾でももっと南に当たる嘉数高台から那覇にかけての高地だった。だから、読谷近辺に上陸した米軍は、嘉数高台までは、日本軍の抵抗をほとんど受けず、一気に進軍した。この付近は素通りしたので、壊されずに残ったようだ。おじさんに尋ねると「そのようですよ」と肯定していた。 左の絵は、昔の住民か水場を利用していた風景である。
「この辺りはカー(泉)が多いので、戦前は那覇にも導管で送っていた。この北側にも、ここよりもっと大きいカーがあるよ」という。「エッ、もっと大きいんですか! その場所って、ひょっとして普天間基地の中じゃないですか」と言うと、「そうそう、基地の中だから、自治会でカギ借りないと入れないよ」「そうですか、じゃあ、カーで何か行事のある時は、カギを開けて入るわけですね」「そうそう」。おじさんは、こともなげに話す。
この泉の隣には、これまた由緒ある「西森御嶽(ニシムイ ウタキ)」がある。神聖な拝所である。碑もあり、その前に石門が造られている(下)。琉球王国の時代、由緒ある拝所の前には門を造っていた。門の中は神聖な森である。他には何もない。
琉球王国の尚清王につながる向氏伊江家の人々が、18世紀に森の川の石積みと石門を建てたそうである。普天間基地の中には、昔からの御嶽もある。お墓もある。カー(泉)もある。一日も早く、基地が閉鎖、返還されれば、自由に出入りできるだろう。
由緒ある井泉を見て歩いても、米軍基地問題に突き当たる。それが沖縄である。
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