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日記

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いのち救われた歌

2009年10月16日 | Weblog

 先週よりひとまわり大きくなったような気がする‘レモ’。最近ではあぐらの上に乗っかる時は、ジャンプして上がるようになって少し逞しくなった。お尻の穴の近くに、小っちゃい玉々があり、これは♂の証しなのか。

 

『愛がなくちゃ』

 ウルフルズが活動を休止してしまって寂しい限りだが、2,3年前のコンサートでこの曲を聞いた時には泣いてしまった。丁度生きるということからほど遠い場所にいた状態の時、この歌の

        愛がなくちゃ

        愛さなくちゃ

        誰かを 愛さなくちゃ

という歌詞が心を打ち、立ち直るきっかけになった。きょう久しぶりにCDを取り出し車を走らせながらもう一度聞いてみた。あの時の感情が再び思い出されて目頭が熱くなった。このアルバムに納められているほかの曲も出来がよくて、1番好きなアルバムである。では心してもう1回。 『愛がなくちゃ』   


柿は食べましたか。

2009年10月02日 | Weblog
 NHKなどのインタビューでは本人が「・・・食べれますね」などとと言ってるとき、テロップでは「食べられますね」と必ず訂正しているのがやっぱり気になる。たいがいは見ていると‘ら’抜き表現で使っていると思う。
これは食べるものですか? 
 はい食べられます。(食べることができますよー。)
 はい食べれます。(私だったら食べますよー。)
 いや食べられないものです。(食べることができないものですよー。)
 いや食べれないものです。 (冗談じゃない、食べられません。)
 私は食べられないです。
 私は食べれないです。
私だけだろうか。なんかちょっとニュアンスが違うような感じがするのは。

 家の周りには柿の木がたくさんあって、今年もその実が少し色づいてきた。こういう環境が近くにあって「季節」を自然そのもので感じることが出来るっちゅうのは贅沢なことで、都市生活では雨風土のもたらす影響がこんなところにでるということ自体すら感心が薄くなって、季節感はたいがい着るものの移り変わりというところがさみしいね。寒くなったり日が短くなったりのほかにも匂いとか空気とか色々あって、この辺の風景には感謝します。

 ご近所の柿畑の人がくれたのか、本日柿を食べました。なんでも初物はおいしーぃねぇー。栗は先週頂きました。あとは例のやつ、傘つきの、そうあれです。・・・シイタケは先日焼いて食べました。もうちょっと太いの。

 

酔っぱらいとインターネット

2009年09月29日 | Weblog
 数年前に植えたレモンの木から今年はじめて数個の実がなり、まだまだ黄色く色づいてないにもかかわらず、我慢できずにちぎってしまった。レモンの収穫期はいつだろう?それはそれとして晩酌に、このちぎったレモンを半切りして絞り、冷えた焼酎の中に落とし、数杯飲んだら、普段より酔っぱらってしまった。
 こういう酔っぱらいがインターネットをすると碌なことがない。ゴキゲンでしているのは間違いないのだが、とにかく普通ではない。気がついたら「楽天」で買い物をしていた。現金がなくてもカード決済ができるのはこういう状況のときブレーキがない車みたいなもんで止まることを知らない。酔っぱらいは我慢しない。酔っぱらいは後先のことを考えない。買い物自体は前から欲しかったいくつかのうちの数点を注文したので大丈夫なんだが、背中を押してくれたのが焼酎の力ということに、後ろめたさが残ってしまう。アルコールのせいでネット販売の魔法にかかってしまった。

 雑誌か何かに読者の投稿があって、少子化対策はこうしよう、という記事があった。海外出張帰りの主人を空港まで迎えに行き、この日は子供(2人)のいない時間なので久しぶりに恋人モード。こうして私たち日本人もフランス流に少子化対策しましょうって。・・・ごちそうさま。
 

鳩山さんについて

2009年09月25日 | Weblog
あくまでも個人的な感想で申し訳ないが、鳩山政権が誕生し政党のキャッチフレーズである「国民の生活が第一」と述べられている鳩山さんを見たとき、その空虚な上から目線的な現実感のない雰囲気に、ああこの人は国民であって国民でないんだなという感情が生まれた。そんじょそこらにいる凡人とは、けた違いの雲上人のお言葉に近い感覚を持ってしまった。
ということであまり良い印象を自分には与えなかったが、今回鳩山さんがアメリカに渡った時、個性的という意味での上品さが歩く姿から滲んでいて、ああほかの人でなくこの人で良かったと思った。こういう状況で例えば小沢さんだと、どっかの土建屋の会長みたいだし、岡田さんはサラリーマンの上司みたいで、管さんは団体役員のおっさんみたいで、仙石さんは苦労しすぎた学校の先生みたいな勝手な空想をしてしまう。前任の総理をイメージしてみたが格段に醸し出しているものが違う。人間、育ちとか家系とか環境というものがいかに体に染み込んでいるものか、あらためて考えさせられてしまった。決して俳優ばりの男前でもなくどっちかというとは虫類を連想してしまうお顔建ちではあるが、品の良さとは関係ないらしい。ひとつ言えることは鳩山さんはいわゆる‘殿様’が似合うひとかも知れない。

ウェルかめ、ウェルかめと最近NHKやら新聞が騒がしいがこの28日から朝の連続テレビ小説がはじまるらしい。それで思い出したのが僕のおじいちゃんの名前は「亀太郎」だった。これを機におじいちゃんの思い出や小さい頃の思い出をたぐってみようか・・・。

敬老の日に思う

2009年09月21日 | Weblog
「敬老の日」は今の段階ではいらないと思っているが、果たして将来の自分はどうだろう。意外と超長生きして、マスコミとか役人さんがお祝いに来るのを喜んで待ってるだろうか。

なんと敬老の日のきょう、ラジオ番組の特集で‘フォークソング特集’をやっていた。冗談じゃなく確かに谷村しんじも南こうせつもある意味では老人かぁと納得はするけれど、首から上で判っても首から下では判らないという理解しがたい状況を受けとめなくてはいけない時期なっている。もうそろそろこんなジジイが「懐かしの歌番組」あたりで闊歩するのも当たり前になったりして。


最近気になった言葉。

「哲学を持ってないと絵は描けない」 横尾忠則。

 別に哲学などなくてもいたずらなお絵かきはいくらでもかけるが、絵は描けない→画家になれない、という意味だろうか。横尾忠則さんの描いてる絵へのスタンスがそういうものを目指しているということで半分納得。半分感心。


 「稽古の量はクオリティーの高さに比例する。」ある俳優、映画監督。

 これは耳が痛い。何事も近道はないんだが・・・。


痛し!痒し!

2009年09月16日 | Weblog

今夏、ムカデに頭を2回刺され(咬まれ)、アシナガバチに鼻の頭を刺され、そしてとうとう先日ススズメバチに刺されてしまった。放って置いたら夜中になってぱんぱん?ゴム手袋に水を入れた状態?グローブのような?てになってしまなった。

 これがとにかく痒いのなんのって、刺された直後は火箸を押しつけられている痛みが走ったが、それよりかこの痒みのほうをガマンするのは容易ではない。 翌日、皮膚科に走ってこの「腫れと痒みをどないかしてくれー!」と訴えたが、先生はなぜこうなったかを蚊に刺された時からご丁寧に説明してくれ、そうじゃなくてやっぱりススメバチに刺されたら違いますねえと訴えたら、蚊もスズメバチも同じだとおっしゃり、とにかくどうすればよいかという結論は、刺されないのが一番ということの意味をおっしゃっていました。先生えらい。でもそのかちかちの思考回路どうにかならん?と思いつつ看護婦(士)さんには静脈注射とVG軟膏をぬって貰って帰ってきたのでありました。


舞妓はぁーん

2009年09月09日 | Weblog
京都、といえば舞妓はん。友人が京都に旅行に行ってたらしく舞妓はんと一緒に写真に収まっていた。いやいやいや、うらやましい限り。「・・・どすえぇー。」なんて生で聞きたいなあ。・・・ということで、舞妓はんと言えば映画『舞妓Haaaan!!!』。まだ見てない人は見てね。
映画に限らずクドカンの世界にぴったりハマル人なら、たまらなく面白さがわかるんだけど、小生もその口のひとり。最近では、『少年メリケンサック』。特にジミーがサイコーですわ。
‘メリケン’という言葉はアメリカンということを最近になって知りました。メリケン粉はもちろん、アメリカより輸入した小麦から作ったからです。ミシンという言葉もsewing machineのことで今だったらマシン。メリケンもミシンも原音に近いからすごいね。昔のひとはある意味すごい。

例えば動物園とか美術館に行って、鑑賞する場合、じっくり見る人と、さらりと見る人とがいて、自分は後者だと向田邦子のエッセイで見つけた。今まで少し後ろめたさを感じつつ、そそくさと見て回る自分を気にしていたが、この記事を読んで安心した思いである。向田邦子生誕80周年だそうでその特番のTVドラマもあるらしい。。・・・どっちでもいいけど。

鳩はえらい

2009年09月08日 | Weblog
割と規則正しく生活している。例えば朝は6時前後に起きて、7時前にトイレに行き用を済ます。家を出る。帰宅してあれこれしてまたトイレに入る。その間約12時間ほど外で過ごしている。するとそのトイレの空間にいる同じ姿勢の自分がそこにいて、ああ一日が終わった。あっという間に終わった・・・そしてまたここに居る。で何が変わったということもないけれど、とにかく時間は過ぎ、何かが変わった。・・・というふうにあらためてきょう思った。

別にさしたる目標もなく走りだしている時がある。ただ走ってるだけなにに、ある1点に引っ張られるようにして進んでいる感覚がある。走っているときは、周りの景色が見えなくなる時もある。できれば目標が決まっていてその目標に向かって進んで行くのが望ましい、と思う。だけど人生、走ると時もあれば、歩くときもあり、たまには足踏みするときもある。ゆっくる歩いて、すこし走って、周りを見て、少し歩いて、また夢中になって走る。

一所懸命にハトさんが卵を抱えて身動きしない。ハトさんにも色々いるが、すぐに人の気配で飛び立つハトさんもいる。このハトさん、大したものでじっとして卵を守っている。親心がこっちに伝染して何も出来ない。齢を経るとこういうものに感動する。小さな命も大きな命もない、愛は惜しみなく与えるものだ、と。

2009年09月03日 | Weblog
とりあえずこんなのを見ると心が和む。
この場合、子供の方が親に乗っかてるので、親の方が子供を乗せてるのではないだろう。
しかし大抵の哺乳類のばあい親からの一方的な愛が普通じゃないの。
あの偉大な親からの『愛』は?
だから、ごく自然なこの写真がちょっとふざけて見える。
この親にとって甘えられているという喜びで十分なのだろうか。
これも愛、あれも愛じゃないけれど、こんな所に自然の母子(多分)の絆を発見した。

ちょっと前にブーム?になっていた『バカの壁』を読んでないことに気づき読んでみた。自分では頭柔らかい方だと思っていたが、人間思い込みの中で、その思いこみの中でしか生きていけないということがわかった。
ウド鈴木さんがこの本を読み始めて、最初のページで理解できなくなりバカの壁の意味が分かったという妙に真実なことを思い出した。それでも読み進むうちに、なるほどなるほどそうそうやっぱりそういうことかなるほどと目から鱗の項があって実におもしろい。
先日テレビでエルサレムの『嘆きの壁』を見た。バカ壁の実物を見た思いだった。何千年という人の思いが詰まったその壁はあまりにも巨大だった。