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日記

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通夜

2009年12月02日 | Weblog
通夜に行ってきた。長年連れ添った相方が、突然逝ってしまった残された者の悲しみを想うと胸が痛む。亡くなったその方は老齢ではあったがつい先日まで元気にしておられた。むしろ残された方のほうが体調の具合はよくなかった。今にでも何処でも飛び込んで死にたい、そんな残された人の言葉からは悔やむに悔やまれない言いようのない悲しさが伝わってくる。合掌。

 ついこの間、クレヨンしんちゃんの作者の方のお別れ会があったと報道で知った。そして彼の遺影はなくキャラクターばかりが祭壇?にあった。ご本人の遺志かどうか確認できなかったけど、それもあり、かなと思う。
 
 通夜では遺体が寝かされ、親族ほか訪れる人たちにじっと顔を見つめられる。一生のうちでこんなにじっくりと見つめられることはない。人は死んでから見つめられる。
 このことを考えて以前家族のものに、見つめられるのは、‘恥ずかしい’。と言った。自分の意識はもちろんないが遠慮なく覗き込んだり見つめられることに死んでからだとはいえ、了解してないぞ、と言ってやりたくなる。
 だから彼の遺影は無かったのではないだろうか。
 

日記はウンコ

2009年11月29日 | Weblog

 

ドウダンツツジの紅葉、イヌシデの黄葉が美しいです。暖冬と言われている毎年変わらぬ景色を今年も見せてくれます。ハナミズキはそろそろ終わりです。

 思い溜めていることが幾つかあって、書こうと思ってもなかなか時間も才能もなく日記に空白ができてしまう。思いつくままに書きだす。

  日記というものがそもそも行儀知らずの犬の捨糞のような物だと思っている。たまに犬を連れて近くの道を散歩するが、いわゆるマーキングは出し切って空気しかでないのに格好だけは片足あげてエアマーキング。。その途中に時々大の方をしてまた歩き出すのだが、これが日記を書く行為と同じようなものと考えている。 

 ようするに溜まってきて、したくなったときにその辺の道端に落として行く。だから特に思い入れはないけど、かといって無関心でもなく、時々後から匂いを嗅いだり、その時の状況を思い出して眺めてみたりしている。 

 いわゆる『表現』にあたる作品を作る行為もこれと同じようなもの。頼まれもしないでやっているアマの芸術家か超大物さんなどはこういう排泄行為が作品を生みだしていると思う。そうでなければ次から次へ作品などできるわけない。少しは誰かにモチベーションを上げてくれるきっかけはあるにしても、溜まらなければ出る物もない。 人には溜まる人とそうでない人がいるようで、言葉変えれば作る人と、見る人聞く人、神様はそういうふうに分けられた。

 

 「脳は心を生み出す臓器である」 茂木健一郎 最近読んだ本の中で見つけました。

 このいくつかの本を読んでみて分かったことは、脳には「手入れ」が必要で、勉強することはもちろん大切だけど、眠っているときもぼーっとしているときも常に脳は何かしら活動していて、意識して脳を働かせることがベストではなく、無意識でもちゃんと働いているということ。だから、「自分が創造的になれるかどうか、どのような世界観を持つか、どのような人格を形成するか、人とどのような形で接するか、何を目標にして生きていくか、人生の危機にあたって、どのように身を処するか。」はすぐに結果結論がでる課題でもないし、常日頃の生き方考え方が非常に大切になってくるということをあらためて考えさせられた。

 

 こんなに大きくなったレモちゃん。最近では遊びで捕食行動を元気にやっているが、ひとつ進歩して、じゃれるだけで終わっていた行為が、口にくわえて運んでくるという行為がプラスされた。くわえた写真はないけどカーテン暖簾類に掻き昇るのは大好きです。

 

 音楽についてー 日本人が歌うボーカルは、なぜ欧米人種の歌声とああこうも違うのか。楽曲演奏だげだと違いに気づかないことが多いけれど、ボーカルが入ると全然ダメとはいかないまでも、もうひとつと感じるのは何故だろう。体躯がでかいからというわけではないような気がする。特に男性が明らかに何か違う。声の質が違う。日本人にもイイ声の人はもちろんいるけど、向こうの人と比べると、勝ち負けで言えば負けている。だから聴くのは洋楽がいい、となってしまう。ボーカルに関して言えば完全に個性が出る分野で、同じ歌でも人が違えば、出てくる味わいも違う。楽器演奏は耳が肥えてないというせいで、違いにそう敏感ではないが、歌がはじまったとたん、こりゃ駄目っていう新人やアマチュアバンドもいる。まあとにかくボーカルは間違いなく個性で、真似することはできない。(モノマネ程度になってしまう。)

 それで外人さんと日本人の違いで言うと、女性ボーカルは日本人でも‘OK牧場’の人が多いけれど男性ボーカルでいうと、味わいが格段違う。いわゆる食生活、文化、骨格、が「個性」を生み出していると結論しさえすれば、それで済んでしまうが、いま歌っている多くのJポップが、日本人の声質に合ったボーカルスタイルだろうか、と物知らずなことを思ってしまう。

 


時間がない

2009年11月27日 | Weblog
 家族がひとり増えるということは、をれはそれで楽しい心和ませるものがあって非常に至福なのではあるが、そのひとりの面倒をみるということは、そのぶん時間がなくなるということで、最近は少し頭悩ますところであ~る。(正確にはひとりではなく一匹だが・・・)仕事から家に帰ってから、トイレの世話そうじはもちろん晩のご飯、じゃれるお遊びの時間、一通りやってからでないと落ち着けない。いったん落ち着いた後でも、放っておくと突然足もとから掻き上がってきて肩に乗ってしまう。歯磨きしてる最中などは特に危険。
 なんだかんだ言ってペットの恩恵に授かっているわけだが自分としては恥ずかしながら、もう単なるペットではなく家族の一員であって、飼っているという感覚ではなくそれ以上の関係だと錯覚している。もちろん寝起きを共にしているという状況もあるが、その成長をみてると、まるで孫がいたらこんな状況になりそう、と思えるくらいたのしい。だからこうして家族が増えるということは、かけがえのない時間を与えられる代わりに時間もなくなるということを、猫に教えられた。

あきちゃん

2009年11月23日 | Weblog
亜紀ちゃんと言えば、私の場合は八代亜紀ちゃんのことで(いまだに「ちゃん」はないだろうと突っ込まれそうだが・・・)、先日久しぶりに『舟歌』を聞いた。ちょっと感動したねえ。このちょっとというのがミソで、感動しすぎても何も感じないのもいけなくて、ほんわかと、じわっと心にしみ入る感じがイイのだ。馴染みのある歌というのは、使い古し洗い古し着込んだ寝巻のようで、その日洗濯してお日様の匂いの残るあの気持ちいい感触を知っていて布地に顔を擦りつけたくなるようなそんなほんわかな感動がいい。これで温めの燗などが本当にあったら最高です。

 盲目のピアニストツジイノブユキさんがコンクールで優勝して一躍世界から注目されたニュースがありましたが、そのドキュメント番組をやっていた。ながら見でよくは見てないがそのコンクールの審査員の一人が(たぶん著名な人)が確かこう言っていました。

 「演奏(最初から最後まで)できるという事は、はじまりに過ぎない。」

 クラシック音楽の場合、曲が難解で長い楽曲は当然多いと思うが、ほかにも同じ料理や歌など「表現」することを実践するなら、こういうことだろう。その努力を想像すると大変なものがあるだろうが、極めていく快感は羨ましい気もする。いつも妥協している自分には耳痛い言葉。





 

我思う故に・・・

2009年11月18日 | Weblog

 

 わかりづらい話で恐縮だが、小学2年生の頃はちょっとした哲学者だった。学校の帰りすがら、「我思う故に我あり」ということを考えながら歩いていた。自分が自分であるという確信する最初はどこからが、始まりなのなのだろう?と。つまり自分と思った瞬間から自分になるので、仮にもし今自分が死んでも、また自分という意識をもった時点から自分になるのだから自己は消滅しない、はずやなあー。もしかしたら今度は女になって自分が存在することもありえるぞ。でもその時には今の自分とは関係ないか、どうか、それは判らない。・・・という風なことを考えていたのを覚えてる。 

 この問題の解決は子供のそのころから現在になってもちっとも進展してない。少し判るのは、言葉と意識がその問題に大いに関わりがあるということ。「自己」とは言葉と意識の上でしか認識できないものか。犬や猫は自己認識をどうやってするのか。・・・ああ結局よくわからないまま眠くなってしまう。

 

  「生生流転」ショウジョウルテン。とはうまく言ったものだ。  

 

 夕べ、居間のテレビが壊れた。兆候は数ヶ月以前からあったのだけど、雷の電波障害程度に考えていた。突然プチッとダウンしてしまった。十数年使ってきたから寿命といえば寿命だ。あっけない終わりだ。人間も逝く時はあっけない。二度と戻らない。いつプチッと逝っても大丈夫なように常々から心しておこう。  

 

 2週間ほど前から階段の昇り降りができるようになって、今では駆け上がるくらいに進歩している。そんな成長著しい奴だけど、いつまでも哺乳ビンを与えたがるうちの連合いはどうしたものか。いつまでも赤ちゃんじゃあないのに。この前、休みの日に観察してたけれど一日24時間のうち23時間は眠っているね。猫の話ですけどね。

ほれこの通り。

 


なにがなんでも1曲作りましたよ。

2009年11月11日 | Weblog

 平穏に暮らしている。だけど笑わない生活が続く。普通に穏やかに生きているだけではフラストレーションが蓄積するのか、少しずつ体内に何かが溜まってどうにもならない。ぼーっとする時間も必要なのか・・・。先日BSフジのプライムニュースという番組で『笑い』についての特集をやっていた。(あの番組はひとつのテーマで2時間やるので最近では気に入っているTV番組かな。)当然のことながら、いかに「笑い」が人間にとって効用あり重要かということについてゲストコメンテイター?を通じて伝えていた。そのひとり高柳さん?(『笑いの医力』という本も出版していると宣伝してましたけど。)という女史はのっけから笑っていて充分楽しませてくれました。ワタミの社長さん曰く、長寿の人に共通するのは、1くよくよしない、2誰にも常に感謝している、3よく笑う。ということだと仰っていましたね。つい先日亡くなった森繁久弥さんも在りし日のインタビューで、済んだことには後悔しない、と言ってました。96歳まで生きて、老衰ならいい人生でしょう。ご冥福をお祈りします。 

 人生の応援歌みたいな歌を1曲は作ってみたいと思っていた。きょうは時間がたっぷりあったので、ぼーっとするのもいいが、その歌のPVを作ったよ。PVと呼ぶにはちょっと言い過ぎで、家族に見せたらずいぶん手を抜きましたね、と不評でした。手を抜いたのは間違いないけど、こんなことして遊ばないとフラストレーションが溜まるからね。 それでは見てがっかりの人生の応援歌『明日に向かって ーガンバレBabyー』どうぞ。


アイドルはどこ行った

2009年10月28日 | Weblog
 阿久悠の歌を聞く、というラジオを何となく聴いていた。時代の移り変わりを考える時、「昭和」と「平成」は音楽、特にTVで流行っていたいわゆる歌謡曲の歴史は丁度ほどよい区切りになるのかも知れない。と勝手に何となく考えてしまう。
 あの頃のアイドル歌手の歌詞はアグネスチャンの「星に願いを」に代表されるように好きな男の人をひたすら待つ健気な女の子であり、別の見方をすると男社会が中心にして動いていた時代のその男の側からの勝手な理想があった。だから女の子アイドルは、若者もおっさんも‘大好き’な時代であった。一方、同じ時期、おとなの歌では青江美奈「恍惚のブルース」、の歌詞はこんな女に誰がした不幸な女が主人公の歌詞はやはり男の勝手な思い込みの歌を歌わされていた時代でもあった。「昭和」という時代は今から思うと、まだまだ男の時代であった。
 ちょうどアイドルが自分で歌詞を書いたりする頃から女の子のアイドルは居なくなったような気がする。そのころに身近に結婚式を挙げたカップルがいて花嫁が「これからは二人でお互い助け合って生きていきます。」と言っていたが、その意味は「これからは夫にも家事育児を手伝ってもらいます」、という事が後になってわかった。
 時代の移り変わりは、いつの間にか進んでいて今では女の子のアイドルは居なくなってしまった。相変わらず男のアイドル?は健在で、やはり今の時代は女性中心的に動いているということになる。とにかく今の時代、女子供に気に入ってもらわなければ始まらない、そう思っているお父さんがここにもいる。
 
 

長生きの極意

2009年10月23日 | Weblog
 なかなかのダンディーで、さぞかし昔は女性を泣かしたんだろうと、ギョロっとした目と薄い唇がそんな想像をしてしまうくらい、垢抜けてみえる、そんな爺さんの話。
 知り合いの家におじいちゃんがいて、年に1回程会う機会がある。また1年ぶりにお会いした。大抵同じことを3回ぐらい聞いてきて、その度に同じ返事をするのだが、映画の「50回目のファーストキス」ではないけれど、おじいちゃんはいつも新鮮なのだ。若いときには戦争でビルマに赴き、8年も日本に帰って来られなかった話や、当時のマラリアの脅威、脳症の症状など、そしてほとんどが日本には戻らぬ人となったことを、きょうは話してくれた。
 そのおじいちゃんに、「お歳はいくつですか?」と聞いたところ、「80歳くらいで何歳かは忘れた。」、とおっしゃられた。こんな返答は聞いたことがない。TVで鶴瓶さんが町中でおじいちゃんおばあちゃんに会い「何歳ですか?」と聞いた場合、大抵自分の歳くらいはどんなジイさんバアさんでも覚えてて、ちゃんと答えるのが当たり前だと思っていた。
 元気で長生きの秘訣はこんなところにあるのかも知れない。自分の年齢が大きいことか小さい事かは判らないけれど、とにかく小さな事、興味ないことは忘れ生きること。
 多少はボケてはいるが、ボケることと間違っていることとは異なっているということは大事だ。耳が遠く、何回も同じことを聞くのは、面倒くさいけれど、経験しようとしても不可能なことを聞くのは面白いし、十分ためになる。そんなおじいちゃんは家族からも愛されて幸せものだ。後で娘さん(といってもおばさんなんだが)に聞いたところ、「歳は91歳なんですう」、と。80歳から歳はとってないらしい。

もってのほか

2009年10月21日 | Weblog
 こちら平民の下の下の者だから「もってのほか」なんていうふざけた名前の食べ物があるとは知らなかった。山形から送ってきたというその「もってのほか」はただの菊の花であるが、かの菊の御紋を平民が食するとは何事ぞ、というわけでこの名前らしい。
 また丹波篠山の黒大豆枝豆は秋この時期にしかとれない逸品だそうで、篠山といえば栗だと思っていたが、こちらつましい生き方をしてきた者には、へえーっと思うしか仕方ない。・・・どちらも頂き物で、ともに食すのは初めて(恐らく)でこんな物を食べられて世界は広いし、人は有り難いときょうは枝豆をほくほくといただいた。

 こんないい天気で、空を見上げると抜けるように真っ青で、陽気もいい。
でこんな日にあのことを思い出した。やはり絶好のお花見日和。大都会の由緒ある公園でお花見気分でOLさんが同僚と弁当を広げていた。そこになんと子猫大のネズミが天から降ってきたのだよ。どうなったかは想像通り。いきなり弁当のおかずがネズミに変わってしまったお嬢さん、阿鼻叫喚でした。この目で現場を目撃しましたから本当です。何が起こるか解らない人生だけれども、こういうのもありというのも肝に銘じておくべし。

その時のために

2009年10月19日 | Weblog
 その時は冷静だった。でないと死ぬ行為を確実に成功するには、その時が冷静でないと成立しない。
 狂った状態では確実に死ねるわけがない。狂ってたまたま死ぬ場合は別として。
後から考えて、あの時はどうかしていた、と思うことは沢山あるけれど、あの時の自分は狂っていることが判らない。
 そもそも人に迷惑をかけないで狂うことがあるならば、いつも狂っている。 
  
 人間の内面は解らない。犬や猫のほうがわかりやすいから飼う。
どんな状態でもお腹が空くということであれば、OK牧場。
 また著名な方が自ら命を絶った。
 こんなことを考える。命を絶とうとする前にお腹が空いたら、食べてから事再会になるだろか。何もせず何時間も逡巡していたら、喉ぐらい渇くだろう。お腹も空いてくるだろう。そう考えると、たぶん刹那的にその行為は行われるということか。しかも狂ってるんじゃなく、あくまでも冷静に。
 その近辺に吸い殻が3,4本落ちていたというのは聞いたことがある。そのくらいの時間と何かがはたらく。
 ‘鬱’ということで納得するか。誰もが暢気に生きているわけではない。なぜ死ねるのか。
生きているよりいいから、と。でも実際にその行為をする、動かすものは何?
 ひと自ら命を絶ったり、ひとがひとを殺す行為に至らしめる、その‘死’という魔物はいつやって来るかわからない。