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織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」

2011年02月17日 11時32分21秒 | 岩手路、花巻
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 東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」  ,




手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の赤○印が清水寺(Asahi・comより)



【追記】  

平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から特定されたという。

京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されていて、内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏(藤原氏の本流)の根拠地である点から関連した高貴な一族の誰かと推定されていた。

清水寺縁起」には田村麻呂の墓地に関する記載があり、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。 
その後の研究によって西野山古墓は田村麻呂自身の墓であることが特定されたという。
尚、清水寺の創建は平安初期に「延鎮上人」(奈良から平安前期の法相宗の高僧)により開祖 坂上田村麻呂の堂宇建立により創建されている。 
清水寺のある音羽山は、元々は延鎮上人の観音修行の地であった。 そこへ田村麻呂が山荘を建造したが、田村麻呂の夫人の発願によって堂宇として寄進し、延鎮上人によって開山したものとされている。(北観音寺⇒清水寺


田村麻呂は平安初期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷の勢力が強かった事が伺えるのである。
同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。

西野山古墓
は清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。 
又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。

この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。
遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。

次回、岩手 「奥州の不穏」



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東北紀行(29)岩手 「坂上田村麻呂」

2011年02月16日 09時26分51秒 | 岩手路、花巻
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 東北紀行(29)岩手 「坂上田村麻呂」  ,


中国風の政治を目指した桓武天皇は平安京を造営する。 
その平安京の鬼門の方向に異国の野蛮な民・「蝦夷」が存在することは耐え難かった。 即位後、早速、蝦夷の制圧を政策にかかげた。 
ところが、蝦夷にアテルイという英雄があらわれた。

アテルイは蝦夷の族長たちをまとめ、北上川(岩手県)の支流、衣川での戦いで、わずか1500人ほどの軍勢ながら、桓武天皇の派遣軍を打ち破る。
その3年後、今度は坂上田村麻呂が副将を務める10万人以上もの第2次蝦夷制圧軍がやってきた。 ところがアテルイ達はこれをもはね返して、北上川から北の独立を守った。

坂上田村麻呂は新たな征夷大将軍の位を与えられ、801年からの第3次蝦夷制圧を指揮することになった。 
田村麻呂は、兵力で押しても蝦夷はぜったい平定されないと考え、そこで蝦夷の文化と自立性を認め、蝦夷の族長に対する懐柔工作を展開する。
これによってアテルイの連合組織は分断され、弱体化してしまい、アテルイは盟友のモレとともに田村麻呂に降服することになる。


この戦いの締めくくりとして、坂上田村麻呂はこの地に胆沢城を造営し、150年にわたる陸奥北半の経営拠点とした。 
これによって胆沢地方をはじめとするこの地方は中央集権下に組み入れられ、律令体制の下に統治されることになる。 以降、胆沢郡が新たに設置され江刺郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡・岩手郡と合わせて「奥六郡」と称された。
田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生むことになる。 
即ち、文の菅原道真と武の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされた。


一方、陸奥按察使である坂上田村麻呂にはもう一つの使命があった。
奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。
ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。
当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。 これらは主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであった。

坂上田村麻呂将軍は、武装した「稲作キャンペーン集団」ともいうべき任務をも兼ねて、弥生の文化を広めることにも重点をおいた。
彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。 

また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては珍しく、いつのまにか蝦夷の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。

津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。
因みに、坂上田村麻呂が大軍を派遣した際の拠点を一旦、陸奥国多賀城(宮城県多賀城市)に置いている。 
田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。
そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」のお堂を設えたという。 これが今の松島・五大堂である。


田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。
中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主;後漢・高祖の末裔で、3世紀頃一族を率いて日本列島に渡来した)を祖とすると伝わる。 
坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。
田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。
征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 

この役職は田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。
頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の王政復古の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。

次回、田村麻呂の墓地


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東北紀行(28)岩手 「大伴家持」

2011年02月15日 09時15分52秒 | 岩手路、花巻
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 東北紀行(28)岩手 「大伴家持」  ,




涌谷町の黄金山神社境内に立つ大伴家持の「万葉歌碑」




『 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 
            陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
 』
 
(東国の陸奥の山に黄金の花が咲いたおかげで、天皇の御代は益々栄えるだろう)


日本で始めて金を産出したのは宮城県涌谷町の黄金山神社境内には、金の産出を記念する仏堂が建てられた。 
これが現在の国指定史跡の「黄金山神社」と「黄金山産金史跡」である。 
現在も、神社の側(そば)を流れる小川からは砂金を採取できるという。

この時の延暦元年(782年)、越中国(富山県)に地方長官として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は、陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)として陸奥国府多賀城へと赴任している。(当時の陸奥守:国司は百済王・敬福)

陸奥按察使は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職で、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した地方官のことである。
家持は延暦4年(785年)、陸奥按察使持節・征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没している。



黄金が産出した頃、八世紀の宮城県北地域、特に国府・多賀城より北の地域は、政府の北東辺域にあたり蝦夷(えみし)の地との境となっていた。
政府は国家の範囲を北へと広げる政策をすすめながら、関東地方などから多くの人々を移民させ、要所には官衙(かんが;役所)や守りの城柵などを置いて、地域の整備や「蝦夷(えみし)」と呼ばれた原地人の人々の教化(支配下政策)にあたっていた。

こうして、律令政府のすすめた北進政策と産金地の拡大が深く重なりあい、後に「黄金の国ジパング」としてしられる奥州平泉の黄金文化の誕生につながってゆくのであるが、この時、朝廷(中央政府)による北進同化政策を、押し止めようとしたのが蝦夷の一族であった。

蝦夷(えみし)というのは農耕が導入される以前の日本人という説もあり、先住民族であるアイヌであるともいわれる。 
飛鳥時代(七世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。
元より、東北の地は豊穣な大地に恵まれた聖域で、日本で初めて金が産出された土地でもあり、自然への畏敬と人と人との絆を大切にした暮らしを送っていた。 その生活は、毛皮や馬・鉄・金などの特産物の交易によって営まれていたといえる。

大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又和人の築いた柵を越えて襲撃を行っている。 
飛鳥期の658年には阿倍比羅夫が水軍を率いて蝦夷を討ったという記録もある。

780年頃、蝦夷の最大の戦いは胆沢とその周辺で行われ、陸奥国の国衙である多賀城を一時陥落させている。 
この時の指導者がアテルイという名が伝わっている。  

平安初期、桓武天皇が京都へ都を移してからは、朝廷側が大軍をしきいて遠征し、この時の征夷大将軍が「坂上田村麻呂」であった。

次回、征夷大将軍・「坂上田村麻呂」



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東北紀行(26)岩手 「東北で国内初の金産出・・!!」

2011年02月14日 10時35分48秒 | 岩手路、花巻
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 東北紀行(26)岩手 「東北で国内初の金産出・・!!」  ,



明治維新で東北諸藩の多くは賊軍とされ、この時、長州の誰かが「白河以北は一山百文」(東北の価値)とあざけりを受けたことがある。 
尤も、盛岡出身の原 敬(はら たかし)はこの話を聞いて、号を「一山」(のちに逸山)に定めたという反骨精神の持ち主であった。
原 敬は、南部(盛岡)藩の名家の出身だが、分家して士族から平民となったため、「平民宰相」と呼ばれ人気が高かった。

しかし、奥羽地方は「一山百文」どころか、とんでもなく光り輝いた時代があった。それは金の文化といわれる平泉に栄華が開かれる遥か以前のことであった。



海ゆかば」   作詞 大伴家持

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ




この歌はご存知『海ゆかば』であるが、日本海軍の歌ではない。
ただ、1937年(昭和12年)に国民の戦闘意欲、高揚を意図して制定された曲というのは事実であった。
それ以前に明治天皇が、この文言は天皇を崇敬する気持ちの現れであるとして、「軍神を紫宸殿に祭る祭文」の中にも引用されたという。


原文は「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌」 大伴家持
(陸奥国からの金が産出し、天皇の御代をたたえる御祝歌)

現代語訳
『 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(当時の聖武天皇)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり  (以下略)   我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 『 海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない 』と誓って  (以下略)  朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい 』


歌の中で家持は、産金地を「陸奥の小田なる山」、「みちのく山」と詠んでおり、万葉集に登場する地名の中では最北・最東の歌となっているという。
実際の当時の金の産地は古代から中世にかけては陸奥国小田郡で、現在の宮城県遠田郡湧谷町にあたる。 この地域には金産地らしく黄金山神社や黄金、金山といった地名や痕跡が今も残る。 


奈良期の天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺盧舎那仏像(大仏殿)の建立の詔を出している。
都(奈良)では東大寺の造営工事が進行中であったが、大仏に塗金するための金の不足が問題となっていた。 
そして、陸奥国小田郡から金が産出したという知らせを聞いて天皇は大変に喜び、東大寺大仏に詣でてこのことを報告し、和暦年号も西暦749年の天平時代から天平感宝(てんぴょうかんぽう;この後、764年まで天平〇宝という年号が続く)時代と改めるなど、国家的な慶事として大々的に祝われたという。

因みに、陸奥国から産出した金を大仏殿の建立に当てたのは黄金900両(約13㎏)とされ、大仏造立に要した金の量は、全部で10436両(約146㎏)と記録されている。
産金より1250年を経た現在も、わずかながら大仏には鍍金の痕跡が残されているという。

次回、国司歌人 「大伴家持



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東北紀行(26)岩手 「北上川(2)」

2011年02月13日 10時54分14秒 | 岩手路、花巻
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 東北紀行(26)岩手 「北上川(2)」  ,




盛岡市中心街を流れる「北上川」と岩手山



その後の奥州藤原氏による平泉文化と呼ばれる中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される東北独特の文化圏を形成した。このことは北上川の豊かな流れを利用した川舟の流通無しには考えられない。
北上川の舟運は、当時の経済及び軍事や政治においてまさに生命線ともいえるもので、舟運路の確保は各豪族たちの関心事であった。


時代は下って江戸時代になると、河口にあたる石巻港は北上川水運によって岩手南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名であった。

伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 
これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。


この頃、伊達政宗は北上川に「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。
旧北上川河口から阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約46kmに及ぶ日本最長の運河が延びている。 
江戸慶長年間から明治期にかけて建設されたもので、因みに「貞山」とは伊達政宗の謚号(しごう、おくりなで生前の行いを尊び死後に贈られる称号)である。
仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、近年になって津山町付近で洪水防止のため新たに開削された新北上川(追波湾:おっぱわんに注ぐ)と旧北上川(石巻湾)とに分かれる。 


北上川は、それらの戦役を含めた社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていて、別称・北上川流域文化圏とも呼ばれている。
宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」なのである。 

北上川周辺には国指定史跡、名勝、天然記念物などの多くが分布していて、それは苦難の歴史を秘めていることでもあるが、今は只、ゆったりと流れている。

次回、岩手 「東北で国内初の金産出



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