●「計画」を立てるのは、正直難しい。けどやりようはある、という話。
自分の中で必須だったイベントが終わり、半ば放心状態だった。ゲームをやったりしたわけだが、そろそろ次に向けて始めなくてはいかん、と思いつつ、まだその開放感に浸かっているのが現在の俺である。
来年はぜひ国家認定の試験を受けてみたいと思っているので、今回経験したことを生かしてさらに精度を高めた計画を練りたいと思っている。これは来年の目標。
「計画」はとにかくある目標にむかって立てるものだという先入観があったのだが、それは多分、間違っている。
そもそも計画はある目標を見据えて立てるのが当然である。しかしそれだけではダメだ。適度な力の開放が必須だと思う。達成したい物事にのみ力を振り向けると、知らずの内にストレスがたまる。そのストレスを発散するため計画の中に遊びを持たせてやるのが大事だ、というハナシである。
俺はそれがあまりうまくいかず、実に長い期間だらだらと過ごした。完了日の一週間ほど前からはじめ以上にやる気がでて無事に終えられた。が、適度に圧力を分散させてやらないと、ストレスが吹き出してやる気がぱったり倒れてしまうことを知った。
そこで来年挑む目標についてはなるべく遊びの時間に重点を置いた計画にしてみたい。時間を管理するというよりストレスを管理する発想でいこう。時間までぴっちり決めると大抵は守られないから。
計画を立てないというのもひとつの計画と見ていいと思う。ゼロも数字だ。計画を立てないからには自分の中で完成までになすべきことがある程度見えていて、どんな時間の配分にしようと完了日にはできあがっているはずであるから、目標が手帳に現れていなくても結果に表れているのだ。
世の中結果である。
酒に酔って書いた文章が、楷書の理想的な手本になっているというような例もあるように、結果が全てである。
ただし、救済措置として「世間に見える成果」「自分の中に上がった成果」の二種類が用意されていることもある。一般的には世間に見える成果が最も上にあって認知度が高い。普通、成果といったらそれだ。
しかし自分の中に上がった成果というのもある。これは「その目標に対して自分が起こした行動なり考えなりが、世間に見える成果としては芳しくなくとも自分の糧になったこと」である。新卒を人事が採るときはこういう見方をするかも知れない。
これはその目標、例えば受験などに合格したかしないかだけではない。目標に対する真摯な態度、自分に対する視点をどのくらい沢山持ち、高い場所から見られるか。それによって自分という名の工場をどう切り盛りしているのかをみているということである。
ある目標に向かって頑張っているなら、それが成功したかしないかにかかわらず自分の中でつかんだ達成感は絶対に糧になる。「いや、俺はなにも計画立ててないけどまあ、なんとか終わらせましたよ」となっても、実際は進捗が頭の中で抽象的に表現され、終了日に上がるように作業がされている。仕事だったら失敗は基本的に許されないが、とにかくその仕事の完結に対して達成感、誇り、賃金が浮かんでくるはずだ。
ようするに紙に書いた「○日までに××をする」だけが計画ではない。
自分の場合やることをとにかく沢山考えて紙に書き出して置き、そのことはいったん「忘れないと」考えることばかり頭に浮かんでばかりいるので書く。集中できないときはなにか他のアイデアが浮かんだときであるから、そんなときにも書く。
書こうと思ったときに浮かばなくても、ふと思い浮かんだことは書いておけば後で取捨選択ができる。
このときくらいまでにアレができてないとなぁ・・と思ったらその場で書いておけば、一端忘れて目の前のことに集中できる。そんなことの繰り返しであり、タイムマネジメントをやってる志の高い人から見たらなにそれ、といわれそうだ。
俺のメモ、計画帳は「備忘録」ではなく「忘録」であって、忘れるためにあるのだ。
自分の中で必須だったイベントが終わり、半ば放心状態だった。ゲームをやったりしたわけだが、そろそろ次に向けて始めなくてはいかん、と思いつつ、まだその開放感に浸かっているのが現在の俺である。
来年はぜひ国家認定の試験を受けてみたいと思っているので、今回経験したことを生かしてさらに精度を高めた計画を練りたいと思っている。これは来年の目標。
「計画」はとにかくある目標にむかって立てるものだという先入観があったのだが、それは多分、間違っている。
そもそも計画はある目標を見据えて立てるのが当然である。しかしそれだけではダメだ。適度な力の開放が必須だと思う。達成したい物事にのみ力を振り向けると、知らずの内にストレスがたまる。そのストレスを発散するため計画の中に遊びを持たせてやるのが大事だ、というハナシである。
俺はそれがあまりうまくいかず、実に長い期間だらだらと過ごした。完了日の一週間ほど前からはじめ以上にやる気がでて無事に終えられた。が、適度に圧力を分散させてやらないと、ストレスが吹き出してやる気がぱったり倒れてしまうことを知った。
そこで来年挑む目標についてはなるべく遊びの時間に重点を置いた計画にしてみたい。時間を管理するというよりストレスを管理する発想でいこう。時間までぴっちり決めると大抵は守られないから。
計画を立てないというのもひとつの計画と見ていいと思う。ゼロも数字だ。計画を立てないからには自分の中で完成までになすべきことがある程度見えていて、どんな時間の配分にしようと完了日にはできあがっているはずであるから、目標が手帳に現れていなくても結果に表れているのだ。
世の中結果である。
酒に酔って書いた文章が、楷書の理想的な手本になっているというような例もあるように、結果が全てである。
ただし、救済措置として「世間に見える成果」「自分の中に上がった成果」の二種類が用意されていることもある。一般的には世間に見える成果が最も上にあって認知度が高い。普通、成果といったらそれだ。
しかし自分の中に上がった成果というのもある。これは「その目標に対して自分が起こした行動なり考えなりが、世間に見える成果としては芳しくなくとも自分の糧になったこと」である。新卒を人事が採るときはこういう見方をするかも知れない。
これはその目標、例えば受験などに合格したかしないかだけではない。目標に対する真摯な態度、自分に対する視点をどのくらい沢山持ち、高い場所から見られるか。それによって自分という名の工場をどう切り盛りしているのかをみているということである。
ある目標に向かって頑張っているなら、それが成功したかしないかにかかわらず自分の中でつかんだ達成感は絶対に糧になる。「いや、俺はなにも計画立ててないけどまあ、なんとか終わらせましたよ」となっても、実際は進捗が頭の中で抽象的に表現され、終了日に上がるように作業がされている。仕事だったら失敗は基本的に許されないが、とにかくその仕事の完結に対して達成感、誇り、賃金が浮かんでくるはずだ。
ようするに紙に書いた「○日までに××をする」だけが計画ではない。
自分の場合やることをとにかく沢山考えて紙に書き出して置き、そのことはいったん「忘れないと」考えることばかり頭に浮かんでばかりいるので書く。集中できないときはなにか他のアイデアが浮かんだときであるから、そんなときにも書く。
書こうと思ったときに浮かばなくても、ふと思い浮かんだことは書いておけば後で取捨選択ができる。
このときくらいまでにアレができてないとなぁ・・と思ったらその場で書いておけば、一端忘れて目の前のことに集中できる。そんなことの繰り返しであり、タイムマネジメントをやってる志の高い人から見たらなにそれ、といわれそうだ。
俺のメモ、計画帳は「備忘録」ではなく「忘録」であって、忘れるためにあるのだ。