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...ヨクノポリス...

おぷちまの愛と読書と物欲の日々。RもしくはX指定

アップグレード

2005-08-03 13:14:40 | ―ゲキ・エイガ・ノウ
 部品をアップグレードできないロボットはスクラップというんだ!
 イイ台詞だねぇ。ディズニーのCG映画の中で初めて見たいと思った瞬間だったよ。

 OSをアップグレードできないPCはポンコツというんだ!
 OSをアップデートしないPCは穴だらけというんだ!
 しかもアップデートしてもアップデートしても穴がふさがらないからなぁ。

大河ドラマ

2005-04-11 14:16:35 | ―ゲキ・エイガ・ノウ
 大河ドラマ『義経』。これがまたもう終わるんじゃねーかと思うくらいの勢いでもう石橋山の合戦ですわ。12月まで後8ヶ月もあるんだが、約4掛け8で32回もあるんだよなぁ。どうでもいいか。
 石橋山の合戦というのがなかなかすばらしい。負けて安房に逃げる頼朝と南総里見八犬伝は繋がっているのだ。
 安房に逃げた頼朝は側近の三人の家来に安房四郡一国を与える。安西氏、東條氏、麻呂氏だ。そのうち東條氏は二郡を領しその後が絶えて摂政神余氏にうつっているが、安房国にはこういう下地があって、「八犬士」というSFの部分をのぞいた現実部分の話は歴史に則っている。そのため、大河ドラマでやっていることは、時代が室町へと下り、八犬伝の世界へと突入するのだ。

 梶原平三景時といえば、俺にはもはや『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』という歌舞伎しか思いつかん。ドラマでは「へいざ」と読まれていたが、歌舞伎では「へいぞう」である。もう筋は忘れてしまった。義経と対立するこの武将だが、『誉』という言葉が示すように、この歌舞伎はめでたい曲で、梶原平三はイイ奴である。『石切』なので石を切るんだが・・舞台のでっかい石がまっぷたつになるところしか覚えていなく、何でそれをやったのかが全く記憶に残ってない。
 おもえばあれが今の歌舞伎嫌いを呼んでいるのかもなぁ・・世話狂言はわりと好きなんだが・・。

 頼政、敦盛、巴、二人静、八島、俊成忠度などなど、この義経の舞台を題材にした謡曲はやたら多い。謡曲が書かれた時代からすると当然と思うが、この源平の合戦という奴は、兵どもが夢の跡という句を身に染みるほど思わせてくれる。あっという間だもんな、平家も源氏も。結局源氏は三代しか続かないし・・。
 鎌倉右大臣、金槐集の作者源実朝サンは定家を歌の師匠として育った、鎌倉の磯における京風(どういう説明だ)のおもむきで、独特な歌風は今日でも大変根強い人気がある。下の歌は百人一首におさめられた歌。

よのなかはつねにもがもななぎさこぐあまのをぶねのつなでかなしも

……あのな、20代前半の人がこういう歌詠めるってどういう末世なんだ。この人は暗殺されてしまうが、そういうことを抜きにしても・・。
 これを読むと将軍としてはやっぱり合わない人だと思うし、人間本来から見ればあまりに無常観に支配された人のように思えてくる。
 それはさておき、平家が一時隆盛を誇った平安末期から源氏の嫡流が生き残った鎌倉時代中期までは、あまりに移ろいすぎまた空しい時代だったのだろう。謡曲もたくさん作られているのには十分な理由だとおもう。

 ちなみに金槐集は鎌倉の鎌から偏をとり、槐は槐位で中国でいう大臣の位を表す樹木を意味し、よって実朝サンのことを表している。

源三位頼政

2005-04-04 10:10:45 | ―ゲキ・エイガ・ノウ
 次週のネタばれ、一行あり。

 ドラマはまず見ない。面白くないし、大河ドラマとなると妙に時代考証が間抜けでみてらんない、というのが理由だ。それにそもそも連続してみられるか分からないというのも大きい。ビデオに撮ったとしてもそれを試聴する十分な時間がないウチに次週の番組がきてしまうとなると、自然と敬遠してしまうことになる。
 だから今回の大河ドラマ義経も連続しては見ていないのだが、風呂あがりなどに既に始まっていて、両親が見ている映像のおこぼれを頂戴する、といったような具合である。

 そんな具合なのだが、俺はあの平安末期に活躍した歌人について勉強していたことがあったので、ドラマの下地となる歴史的背景や、そのときの歌人たちの活動に興味をそそられないわけにはいかんのだ。
 ただ、上代(ちょっとかじった)から中世までだーっとかじっただけなので、そう深くはつっこめないところがカナシィ・・・。

 昨日の放送はとうとう以仁王と源三位頼政の挙兵に話がいったな。頼政というと文化人的色合いが濃いと思っているが、人生の終わりに武士としての魂を全うするのを選んだことは、実にあっぱれというほかない。このおかげで頼朝の挙兵などに話が向かうため、失敗した挙兵とは必ずしもいえないが、壮絶だなぁ。
 彼の自害のシーンは来週だ。どこでなくなるのかとくとご覧アレ。

 さて、今の状況で出て欲しい歌人は佐藤義清(西行)、藤原俊成、平忠度である。忠度は都落ちのシーンがあまりにも有名で、俊成とセットで必ず再現してもらわねば無粋もいいところだと思う。
 後白河院が幽閉されている関係上、俊成の出番はもっと後になるものの、源氏の一斉蜂起から3年を経て後白河院から千載集の編者に命ぜられる。ドラマ中の時系列では既に出家しており、出ているとすれば釈阿と号している。
 息子定家も歌人として活躍し始めた頃だし、蹴鞠の師匠(雅経)はまだ少年だ。この時代はちょうど千載集の歌人から新古今和歌集の歌人への過渡期にあたる頃となっているはずだ。

 それにしても人の生き死にが水晶の露のように美しく輝くのはなぜだろうねぇ。

 ねがはくははなのもとにてはるしなむそのきさらぎのもちづきのころ 西行

色模様(ラブシーン)

2005-03-26 10:39:04 | ―ゲキ・エイガ・ノウ
 ドラマのラブシーン撮影の時、男は・・立たないのかな? とちょっと思う。立つわけないか? AVじゃないんだからな・・。

 役者ってのは偉大だ。特に映画なんかでは濃厚なラブシーンを披露するものも多い。ずいぶん前になるが『失楽園』とか『高校教師』とか、最近では『海猫』とか・・映画をほとんど見ないのでこれ以上作品名がでてこない。貧弱だな、俺ァ。
 役者の頭の中ではかようかようの動きをし、カメラはこっちで手はここを隠さぬように・・などと打ち合わせが多々あるのだろうが、キスはしている。唇をあわせているだけかも知れないが、映画などを見ると唇を被せあい、交叉させて吸いあうようなしかたにもなってきているので、結構楽しんでいるのでは? と思う瞬間もある(俺なんかキスとフェラがこの上なく好きなので(口唇期的だな)、あんなの演じられない。立ちます、ハイ)。
 そうなると役者としてしなければならない『演じる』部分と役者本人の『楽しむ』部分と二つの側面が生じるわけだ。しかもそれは演じる部分を最大限表しつつ、その裏を見せないようにしなくてはならない。
 このとき自分の楽しみを前面にだして、仕事を忘れればNGとなろう。当然だ。裏でこっそり楽しみつつ、その楽しみが真に迫る演技に繋がるスパイスになる。楽しまないと演技はおざなりになるし伝わらないが、楽しみばかりでは害になるというわけだ。
 自分が楽しめる仕事しかしたくないというかたもいるだろう。成果・結果を残している人ならばそれも可能だろう。なにも結果を見せていないのに、声高にそんなことを主張するなら、それは単なるわがままである。また、自分は結果を残していると自負しているが、周囲には全くそう思われていない場合もわがままと見られる。おそらくこのパターンが一番始末に負えない。
 いずれにしろ、結果を見せてからでなければ『自分がしたいこと』は実現できない。

 芸能人が海外で一週間ホームステイするという番組があって、最近は全く見てないが、時折見苦しい者がいる。わがままばかりで仕事を忘れ、視聴者に醜態をさらしているのだ。そういう愚者の相手をしなければならないホームステイ先の人々は本当に大変だよな。

市村正親、鹿賀丈史『デモクラシー』、ネタばらし風

2005-03-22 11:37:04 | ―ゲキ・エイガ・ノウ
 日曜日に演劇を見た。銀座のル・テアトル銀座でデモクラシーというイギリス演劇をである。ドイツが西と東に分割統治されていた時代、その橋渡しに奔走してついにノーベル平和賞を受けたブラント首相とその秘書ギョームの物語である。
 このギョームという秘書は東ドイツのスパイであり、ブラントに付き従って文書に残らない個人的な言動や情報や東側政策の重要資料などを東ドイツに送っていた。この話は実話。ギョームが東側のスパイだったことで警察に逮捕され、結局ブラントも辞職せざるをえなくなったのだ。

 この二人を取り巻くように連立与党の党首たちや保安局、ボディーガードなど男たちが立ち回り、舞台の政治的状況の説明から独白まで2時間以上にわたってしゃべり続けるかなりハード(だと思う)な演劇だ。
 動きは多くない。舞台の上を歩く位で大きなアクションはほとんどない。動線を辿るくらいでまず特徴的な動きはない。台詞の量はとにかく多い。韻を踏むことよりも政治家たちの言葉、現実味の方が最優先とされている。衣装に至っては全員背広で、上着を脱ぐか着るか、Yシャツの腕をまくるかしかすることはない。つまり特徴的なものはない。それだけに緻密に計算された演出が物を言ってくるというしかけだ。

 結局ギョームは逮捕されるのであるが、そこがクライマックスとなるのではなく、ギョームがスパイであったことが徐々に調査されていく中で変化していく各個の心情が焦点となっている。今こうして観劇した後を振り返ると、確かにクライマックスは存在しない。たぶん、ギュンター・ギョームとブラント首相が(表面上であっても)プライベートも交流を重ねるまでになり、ギョームもスパイ業を営みながらも首相を心から信頼し、敬愛したという瞬間こそがクライマックスだったのではないかと思う。ギョームに残ったのは結局後悔やスパイの事実を逆に利用されてしまった悔しさなど、感情の中でも負の面だけだったが、市村さんは凄く悔しそうに演じられていたので、こっちもぐっと来た。

 全体としてこの演劇は複雑であるが非常に興味深いおもしろさであった。ただ台詞が本当に多いので、少し早口すぎて解らない場面もあったのが惜しまれる。

 ドイツの占領政策は民主化、つまりデモクラシーが筆頭にあった(いわゆる四つのD)わけだが、冷戦という他国の勝手な構造によって国は分裂させられ、それと共に分裂させられた国民(の中でも政治家たち)、そして分裂させられた一人の男の心情、人生をうまくパッケージにしたこの演劇は怪作であり快作であろうとおもう。

ル・テアトル銀座
http://www.theatres.co.jp/letheatre/

デモクラシー
http://www.horipro.co.jp/ticket/kouen.cgi?Detail=49