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おぷちまの愛と読書と物欲の日々。RもしくはX指定

イメチャの記20:視点

2005-04-06 09:17:13 | ―イメチャ・語彙
 イメチャの時、レスのなかの視点が気にかかる。

 毎日イメチャに関しての苦言ばかりを書いていると、なにやら俺がとても柔軟性のない堅物、気むずかしい人間のように思われるだろうなぁ。イメチャに関するブログなんて始めたときからそれはもう決定づけられていたのかもしれない。困ったもンだ。
 しかしいちおう自己弁護しておくと、俺は最初から最後まで相手への思いやりをすべての根本に置いており、そのうえで思うことをつづっているのであって、決して自分が日頃不満に思うことをただただぶちまけているのではない。

 やべぇ、よけいに見苦しくなった。ハハハ。

……気を取り直しましてですね……。やらしていただくんでございます。

・感情移入
 イメチャの時、感情移入をどうとらえているだろうか。
 俺は自キャラに感情移入し、相手のキャラに感情移入するのが好きだ。相手に自キャラの行動を伝えるとき自分自身が感情移入していないと、ただ上っ面をなでて過ぎ去る台詞やト書きになってしまい、結局相手もそれを敏感に感じて「楽しくはあれど印象深くない」イメチャになってしまうと思うからだ。
 臨場感や登場人物への感情移入は、進んでいくストーリーに現実味やたしかな肌触りを感じさせてくれる。ただの言葉遊びをやりたいというのでなければ、それらの感覚を得たいと思うのは自然だろう。

・一人称
 自分、相手関係なく、そこにいるキャラに感情移入するためには主観表現をおこなうのが最もよい。一人称で話をする、一人称で説明する、キャラのみたもの、動いた感情をキャラの立場で説明するのだ。するとそのキャラ自身の感情や実際の行動が感じられることになって、これは感情移入を促進する。
 セリフは主観的だが、ト書きになるととたんに視点が三人称視点になるレスが結構ある。情景描写が神の視点になってしまうわけだ。「どうやらかんに障ったらしく」などと、自分の心理状態まで客観的になってしまう人もいる。
 これは残念ながら視点の混乱をまねき、さらに感情移入をも妨げる原因になるとおもう。なるべく改善したほうがいいと思うんだが、どうもそういうのが当たり前のようだ。なぜか。
 レスのやりとりをチャットではなくインタラクティブ小説のように認識しているからではないだろうか。小説であれば本文は三人称として、セリフはその人物のものとして認識されるから、それのどこにも違和感は感じられない。
 また、美麗描写過多、非常な長文という傾向を考えるとますますその想いは強くなる。長いのはよいことだという価値観は、会話ではなく文章を評価することと思えば納得できる。

・過去形を使用しない
 チャットは現在進行形のおしゃべりであって、その一文全体が過去形に支配されることはない。経験・体験の告白など一文の中のある事象について過去形が用いられることはある。

「そういえばあのとき固まって落ちたんだったね。おしかったなぁ・・(と天井を振り仰ぎながらいい)」というセリフはまさに過去の実感をいま告白しているのである(ちなみにこうした場合もっともいいのは「言う」と完了しないのがより望ましい。チャットは常に進行しているため、完了にしないで相手の言葉で継がせるほうがより進行中であることが強調される)。

「そういえばあのとき固まって落ちたんだったね。おしかったなぁ・・(と天井を振り仰ぎながらいった)」というセリフは、過去のできごとに対する感情を述べおわった、完了した文となる。これは自分の感情を述べたことに対して、今の自分が振り返ってみていることから客観的な表現といえる。

 つまり過去形をつかうと、自然に自分を外から観察することになるわけだ。これを使用せず、現在形で片づけるとまさに進行中の事象になり、臨場感が増す。

 まだまだ方法論があるとは思うが、ひとまずこのあたりに注意すれば十分だと思う。
 視点の問題を掘り下げていくと、イメチャにおいて感情移入を促す言葉づかいが見えてくる。相手を少しでも惹きつけるレスをするには、相手の感情をこちらに引き寄せることが大切だ。と同時に相手への感情移入を深め、一体感を増すと、より印象深い愉しいイメチャになるはずだ。

イメチャの記19:聞くなッ

2005-04-05 08:58:58 | ―イメチャ・語彙
 何歳?
 スリーサイズは?
 どこに住んでるの?
 彼氏いるの?
 服のサイズは?
 今なにしてんの?
 月経周期は?
 ホントに女?
 しませんか?

 何の話してるの?
 移動しない?
 前に逢わなかった?
 俺のこと分かる?
 いま触ってる?
 いまどうなってる?
 感じてる?
 いっちゃった?
 電話しない?
 これから逢わない?

コナを掛けたいときに使う言葉が一部混ざっているかもしれないが・・聞くなッ

イメチャの記18:雰囲気の理解

2005-04-04 10:23:17 | ―イメチャ・語彙
 今日は長いぞ。

 イメチャは面白い。何が面白いって痴漢したり強姦したり、甘いいちゃいちゃをこれ見よがしに人前でしたり、スワップしたり不倫したり売春したり、新婚だったり、じいさんが若妻をヒィヒィいわせたり、熟女をナンパしたり、平安時代になったり魔都上海でチャイナ美人をビリヤード台の上で犯したり、魔法を使ったり剣を使ったり、とにかくいろいろいろいろな想像で脳内麻薬をだしまくり、女性と一体になってスケベな描写に酔えることが。
 俺自身苦手だったりしたくない舞台や、嗜好が合わず不成立となった情況もあるが、とにかく女性と遊ぶのは楽しい。頭脳さえあれば果てしなく深宇宙の隅々まで羽ばたけるのだ(ザ・ディープ・スペース編風)。

 舞台。イメチャのサイトならばたいてい舞台別の部屋が用意され、ナリチャならサイト自体がひとつの舞台空間である。どちらにも下地となる背景があり、自分たちはそれにそって想像を膨らませる作りになっている。全く無の状態で始めるよりも、指針があればなじみやすく共通認識を持つのもたやすいので、なめらかに世界にとけ込めるわけだ。
 イメチャのほうを主に考えると、たった一人のキャラクターを常時設定するのではなく、部屋や気分などによってキャラが変わるだろう。これは相手も同じことだ。今日はお互い学生かも知れないが、明日は剣と魔法の世界に生き、来週は下宿の書生と家主の娘だったりするかもしれない。いずれにしろ出会うお互いが柔軟にキャラをかえて愉しむことになろう。
 同じ人と同じキャラで深く掘り下げるやり方もあるが、そちらは今回脇にのけ、毎回違うキャラで出会ってイメチャを展開する場合での愛撫の仕方を少し振り返ってみたい。

 これまでのブログは、羞恥プレイやパーツ責めなど部分的な女性への愛撫を記してきた。しかし大局的な視点をまずもたないと、いつもおなじ愛撫に陥って結局マンネリ化してしまうことは確かであり、それをいかにして避けるかという問題に対して回答が得られない。
 これに気づけないといつも同じだということにも気がつかず、いつの間にか「なんだか楽しくない」となってやめてしまうのだ。ああ、もったいない。

 開口一番、痴漢したり云々とさまざまな情況を並べ立てたが、こうした背景は舞台装置だけでなく、男女の立場の違いも決定づける。当然だ。ドラマの舞台が変われば登場人物の特徴だって変わるのだから。どんな人物を設定しようと、舞台設定から逃れることはできないのだ。
 ブログ初日に記した『デモクラシー』という演劇では、登場人物は男だけ、しかも政治家達なので全員背広。発言内容も政治の舞台裏の愚痴や関心事についてのもので彩られ、私事の場面ですら火のでない戦争について語り合っている。
 しかしここにでていた役者たち自身は、CMであれば江戸時代の殿様の役になったり、老人の役になったり無機物の役をやったり、舞台によって役柄を変える。役柄が変わればセリフも心理も行動も変わるのだ。
 これらをふまえれば、シチュエーション別に人間が変わるだけでなく、その行動や発言内容も自ずから変化することがよく理解できると思う。

 さて、具体的に2つの情況を上げてみよう。
 ひとつは社会人のカップル。つきあいはある程度あり、身体の相性も含めて悪くない相手と思っている(例1)。
 もうひとつは、そのカップルの女性の方と、公園を通りかかる女をだれかれとなく強姦しようと待ちかまえている、胡乱な男である(例2)。
 この二つの例。雰囲気や交わされる言葉を片方ずつ想像して両方とも同じセリフ、同じ行動になると思うものは一人もいないと思う。ただし例1であっても凌辱プレイなどといって例2のように遊ぶことだってないとはいえないので、その点は除外してだ(でも上の例でそんなプレイやろうとは、普通いいだせんわな)。
 この差が一番重要であろう。両方同じセリフになるのだとしたら、情況を想像することはまずできておらず、先の展開も同じであって、やっていることに変化がない。これでは誰でも飽きるし、情況の心得がないから控えめにいっても大してイメチャ上手とはいえまい。
 差を意識し、セリフや行動に反映できることを『情況を理解した』といい、そのために『打ち合わせ』をおこなうのであって、ただ好きなプレイをならべて何も考えないでいいかというとそうではない。打ち合わせとは流れとNGを話し合うだけでなく、二人の舞台をきちんとひとつのものとして想像できるよう、固める作業ともいえるのだ。
 また打ち合わせにおいてはできるだけ記号化されたプレイ嗜好の説明をするといい。たとえばSMであれば、SMが好きで、Sです(これは記号)といったら、『女性を拘束してじっくりいじくるのが好き』『蝋燭を垂らしたり、鞭で打ったり苦痛を与えるのが好き』(記号の説明)と加えたりして、SMという記号のもつ自分なりの意味を伝えるべきだ。話しすぎるとつまらないが、どういう流れがいいのかをいうことは是非必要である。

 話がそれた。
 二つの例を比べて違いがでた。そこで違いこそを深く想像し、愛撫にも反映してやるのが必要不可欠である。
 例1で最初から蹴倒したり殴ったりするのはへンだ。甘い言葉をささやいたあと、豹変して乱暴な愛撫になっていくなら理解できる。
 例2では無造作かつ強引、相手の都合を無視した責めに徹し、だんだんと二人がその気になって思わず責めの手が緩み、欲しがっているところに指を入れてしまう・・という徐々に変化していくさまは理解できる。逆に最初から優しい愛撫でねっとり舌を絡めて抱き合うことは想像できない。
 要するにおかれた情況をよく理解し、お互いのNG領域をはっきりさせて愛撫にも変化をもたらすのだ。
 そして言葉をよく選んでレスすること。それまでの情況を表すのは言葉と行間だ。無造作ならば優しく撫ではしないし、甘いささやきに「牝犬」なんて言葉はまずつかわんだろう。
 言葉の持つ雰囲気も情況に支配されることを忘れてはならない(支配されきる必要もまたない。状況は変化するから)。

イメチャの記17:匂いの使い方

2005-04-03 10:01:14 | ―イメチャ・語彙
 3月24日イメチャの記6の語彙の詰め込みに関する文章の中で、香りに凝っていると書いた。香水にすこし興味があるので、香り全般にたいしての関心を掘り起こそうと、現在イメチャのなかでいろいろと模索しているような状態である。
 臭覚というのは大変敏感で、ちょっと違和感のある匂いがあればよけいに感度よくとりだしてしまうものである。鼻が詰まっているとか風邪を引いているという場合は感じることができないのもおもしろい感覚だと思う。
 しかしイメチャにおいて臭覚を表現するのはなかなか難しい。香りに関する言葉がすくないからである。そのせいでなにかにたとえるのが一番の近道となる。またその香りを知っている者どうしの共通の言語として「キンモクセイの香り」「オムニアクリスタリン」なんぞと直接事物や商品名を使用する。

 表現自体がなかなかに難しい臭覚は、匂いの種類・場面からしてもやっかいな存在である。匂いがすること自体が汚らしい意味になる可能性がかなりあるからだ。
 たとえば痴漢イメチャ。
 痴漢したくなる女らしい香りのする後ろ姿が目の前にあるとして、おそらくその香りは香水などのコスメ関係の香りであろう。女子高生などであれば、なぜか甘酸っぱい香りなどといって彼女たちの年齢の初々しさを表現したりする。
 これがいったん触ったり、はたまた挿入なんぞに発展した場合、「さかりのついた牝の匂い」とか「いやらしくあふれ出る液の香り」なんて表現するのではないだろうか。
 俺が臭覚表現の未熟さを露呈しているのは目をつぶっていただくとして、それほど各人で差異がないと思う。なぜかというと、「汚辱」でない限り「くさい」とはいわないだろう。悪い匂いは表現しないのが原則なのだ。
 俺は「くさい」という言葉を極力つかいたくない。実生活のうえでもなるべく避けている。この言葉が嫌いだからだ。生理的に嫌いなのでなぜなのかきかれても困るが、話を戻すと女性に対してそういう表現をおこなうこと自体が女性の尊厳を傷つける行為のような気がするから、女であることを破壊するイメチャなどでない限り使用してはいけない言葉なんじゃないかと思うのである。

 上のように書くととものすごい女性解放論者、いわゆるフェミニストに思われるかもしれないが、そうでもない。
 なにも痴漢イメチャでなくていい。カップルとなって愛し合うラブイメでいいから想定してみればいい。女性器を愛撫しているときに、彼女にむかって「くさいね」という男がいたらそこで即落ちされてもあたりまえとしか思えない。
 画面上のキャラと操作するプレイヤーの別をつけている女性であっても、この言葉によって両方の心を真に傷つけていることに他ならないからである。

 ということで、匂いの表現はイメチャの流れのなかでどのくらい女性をぴんとこさせるか解らないが、まさに香水のように小さな刺激としてレスの中に差し挟んでやるのは細やかな気遣いとして上等ではないか、そして悪い匂いについては禁忌(タブー)であることをしっかり認識して表現に努めるのが大事ではないかと考える次第である。

 毎度毎度四角四面な文章表現で大変申し訳ない・・・。こういう文章は美味しそうな匂いしないんだよねぇ・・・。

イメチャの記14:はやりの表現? 「~ば、」

2005-03-31 09:23:01 | ―イメチャ・語彙
 うぎゃーッ 俺は文法は嫌いなんだよぅぅぅッ

 といってもこれはみのがせな・・くもない問だなぁ。まあいいや。まだ一週間だというのに早くもネタが尽きてきたし、ささいなネタでもつらつら考えてみよう。

 近頃・・というわけでもないのだが、俺が流行っているのか? と感じるのは「××すれ『ば』、しかじか」というレス表現が極めて多いことである。
 文法で説明するとこの「ば」というのは接続助詞といい、仮定の条件、または確定の条件を示している。前者は「本当にそうならば、俺にも考えがあるぞ」後者は「見れば、アジサイの大きな葉にカタツムリがちょこんと乗っている」という具合である。
 ログ中に見るのは確定条件としての「ば」がほとんどである。が、俺の見る限り確定条件というよりも順接の接続詞「そして」の意味で使用されている例がほとんどを占めている。2つ以上の文章が同じ重みで一文となっている『重文』の中で、それらの文章を接続するために「ば」を使うからだとおもう。
 接続助詞は複文の中で使用するが、重文の中で接続詞ではなく接続助詞を使って二つを結ぶのは、今までの日本語経験上あまり見栄えもリズムも良くないと思う。

 流行っている以上抵抗ないといえるだろうがなぁ・・。俺はできるだけ共通語を使うよう心がけている。それでもこの「ば」の用法は共通語のはんちゅうをいかにも超えているし、なにより濫用されているのがみていて何とかならないモノかと。まるでエイワンの丸明オールドだよなぁ。つかいすぎだっちゅーの。

 文章を彩る名詞や語尾の口調、それに形容詞などの修飾語の数々。俺はこれらの使い方に文句は全くない(というとうそになるけど)。結局それぞれの味だから、どういう使われかたをしようと個性を感じることができる。が、助詞の使い方をおざなりにして欲しくはないなぁ。もっといえば、文章の構成に無頓着なのは美しくない。
 こういうの気にならないのかねぇ。明らかにレスごとについてる人もいるし、再考を促したいんだが、いかがなものでしょう。うるさすぎか、俺の感覚が古いか欠陥があるか、そもそも文法理解に間違いがあるか、いずれかなんでしょうか、俺の紙たま。

イメチャの記11:「語彙が豊富」の決着

2005-03-28 02:32:27 | ―イメチャ・語彙
 今日は朝から外出するのでこんな夜中に更新・・・。むしろ明け方か?

 語彙が豊富である、という話題になったときにおそらく思い浮かべるのは「剔抉って言葉知ってますか」「そうやって韜晦してるがいい」「余殃……ですかな」なんて普段耳慣れない言葉までもがいろいろとすっとでてきて、しかもそれを巧みに文章に織り込めること、ではないだろうか。
 確かに単語量からすると、普通使用しない言葉までをも蔵している状態というのは、それがない場合に比べて数が多いわけだから、語彙が豊富といえるだろう。それも的確に使えるならば、なおさら語彙が豊富でいいなぁ、と感ずるところだろう。
 例に上げた言葉ははっきり言って文章の中で使ったことないな。余殃は小説内で使える。実際下書き段階で使ったことがあるし、文章で読んだこともある。イメチャで考えれば、ファンタジー系の部屋で余殃の設定を持ったキャラがいるなんてかなり背景に深みがあるだろ。
 ちなみに上の三つの例はいずれもマンガに出てきた台詞なんだが、作品名全部解る人はすごい。

 しかし、こういうのを「語彙が豊富である」とするのはまだ早い。

 本当に語彙が豊富であるという場合、俺はひとつの事象を色んな単語で表せることこそを差したいと思っている。
 たとえば「性交」。性交、交合、まぐわい、まじわり、契り、セックス、SEX、交尾、いとなみと、様々に表現できる。表記の文字使いの違いも含めるとかなりたくさんの表現があるのが解る。これらにくわえて単語の周辺の表現を色々工夫すれば、もはや語彙なんてものは意識しなくなるくらい膨大にその形をかえられる。
 入れる場合も、差し込む、突っ込む、突き刺す、入れる、挿入する、埋める、ねじこむ、ぬめりこませる(のめり込ませるだが、俺はわざと「ぬ」にしている)などなど。
 ひとつの単語の枝葉を広げるほうが、文章をこねる上で大事だと俺は思う。なぜなら文章中に出てくる仕草なり状況なりは、繰り返し使われるものほど違った表現にしなければ、飽きてくるからだ。「韜晦」なんて通り一遍の表現のなかで言葉の修飾が足りなくとも、同じ単語を続けないように努力するというだけで、だいぶ変化に富んだレスになるはずだ。
 それも語彙が豊富である、といえるだろう。むしろ目指すべきはこっちであって、辞書と首っ引きというような頭でっかちなのは半分無益である。結局身に付かないんだから。

 表現の工夫はやり方がたくさんある。そこでどういう工夫をするか、どうしたらよいかの方法論をしっかり吟味すると、目標の半分はもう達成したようなもんであると思う。

イメチャの記8:文章にある言葉の発音がもたらす効果

2005-03-25 11:18:46 | ―イメチャ・語彙
 今回の眼目は発音に気をつけてみるという話。といってももう半分以上語ったのでほとんど書くことはないんだが。
 これからは前段に俺の興味ある事象、次にイメチャに関する書き付けを公開する形にするので、承前はつけないようにしよう。

 つまり打ち込むときになめらかな音になるならそれに変えてみてはどうかという提案である。俺は時々これを好んでやる。サ行が入らないようにレスを投げるわけだ。とくにイメチャでセックスに及んだときには、擦過音はなるべく省きたいと思って意識している。そうすると「にゅるッ」という擬音ひとつとってもそれが他のなめらかな音をもつ文のなかでさらに生きるように思うのだ。

 汗と汁まみれになって挿入を続け、舌も絡まり合っているというような状況下では行為に擦過音は交わらない。あるとすればシーツや衣服の衣擦れの音(俺は着たままするのがけっこう好きだ)や耳に唇を付けて息を吸う音などか。髪を梳く音もそうだな。焦点となっている性器の交合は擦過音がないだろうから、そこを表現する擬音の周りの文章も、それにあわせてナ行やハ行を使う。彼女のおしりにぶつかる音は破裂音だろうから、それは逆にアクセントになるだろう。

 例:正常位で強く交わっているときは、こういう音もある。それを今回の発音問題に沿って解説してみよう。
 腰の動きをかえってゆっくりと女の中をえぐっていくと、「ぱぐッ、ぱぐッ」という、空気と肉ひだのかき乱れる音に太ももやおしりとぶつかる音が加わったかなりみだらな音になる。

 うーん・・文章はいいけど、これはうけとり手の実感に訴える擬音だよなぁ・・。そうそう、こういう音でるよね? って賛同してくれる人いるのかねぇ。そのへんは眼目じゃないからイイか。
 さて、ザ行はサ行に比べて擦過の度合いが少ないのでまだセーフだろうと個人的には思う。完全に禁止にすると文章作成そのものがなかなか難しくなってしまうので、ほどほどに妥協。
 お尻、という言葉は臀部でもいいしヒップでもいいけど、アクセントとしてわざと「おしり」に。しきゃーも、ひらがなのまるみはこの単語のイメージにぴったりだろ。
 もう少し修飾すべき文章だろうとは思うものの、とりあえずこんなもんで。

……おしりって単語が好きだし俺はヒップフェチであるからだ(真相)。
 あんなエロい部位はないぞえ。胸は男のロマンだろうが、おしりは欲望の根源だね。性器の間近にあるのに豊かな肉でそこは隠されているからな。足へとつづくスマートなラインもあるし、まるで習字のお手本「永」の字のように、女体のお手本みたいな部位だ。だからいつでもどこでも見かけたら見惚れるし、あわよくば撫でたいのである。俺は形やボリュームに関してじっくり品定めするくせまでついてしまった。
 なお、幸いにして犯罪に手を染めることは今のところない(これからも断固として、ない)。

 もっと愉しい書きぶりにしなくちゃ・・まじめくさっていて文が面白くない・・。

イメチャの記6:禁止のススメ、おぷちまのわめき。

2005-03-24 10:48:20 | ―イメチャ・語彙
●直喩禁止
「殺人はそよ風のように」。この「~のように」という表現法が直喩である。比喩表現の一番基本的なものだ。長野まゆみを読むとこれが多くて頭が時々ウニになる(暗喩)のだが、比喩表現はまったくなくても文章がなりたつので、一度まったく使わないでイメチャしてみることをお勧めする。これは結構面白い。
 比喩は安易に相手の想像力を動員させてしまい、結果説明不足になったり、文章が薄っぺらく読み応えがなくなったりする。だからそういう手法をすべて省いてやってみよう、というのが主旨である。

 実はこれ、小説の書き方における訓練なのだ。が、イメチャも小説といくぶん共通する点があるのでわりと役に立つと思う。禁じ手はコチラの思考を逆に鍛えてくれる。こういう表現をしたい。でもこれは禁じられている。ではどうするか・・と頭をひねるようになる。この循環はなかなかいい経験になるはずだ。
 俺はその結果、使いどころが自分なりに発掘できた。スピードアップをはからねばならないときや、一手足りないな、と思った文章に突っ込んだりと色々活用している。

 あるいは暗喩。イメチャ人はむしろこっちを多用しているかもしらん。俺は最近使ってない気がする。思い起こしてもどこでどういう文句を打ち込んだか覚えてないからだ。
 ファンタジー系はそもそも修飾語が目白押しで極彩色になる傾向にあるので、暗喩を巧く使うと引き締まった文章になるはずだ。

●語彙つめこみ禁止
 シバリを設定すると逆に文章が生きるというのは不思議なものだが、これは事実である。文章につめこみすぎた単語は富栄養化をおこし、息苦しくなる。そのうち窒息する。
 豊かな表現を実現するには、語彙よりも実感が先である。実感してそれを表現に生かすことから始めないと、ただの単語の投げかけになってしまい、それを相手が生きた状態で受け取るのが難しい。表現したい事物が生き生きとイメージの中で精彩を放つには、視覚にのみたよっていてはダメだ。他の感覚にも訴えないと、生きてこない。

 だから下手に語彙を突っ込むのではなく、使いたい単語があったら視覚以外のイメージをもっと湧かせるようにした方がよい。ちょっとハナシはずれるが、最近俺は香りに凝っているので、練習のつもりで色々香りの表現を必ず投げてみている。いままでも嗅覚に関しては含めていたのだが、表現力は貧弱であった。ある程度以上の表現をしようとすると、どうしても興味があまりなかったぶんだけ想像力も働かないのである。
 ところがメンズの香水や、同僚がつけている香水に注意を払ってみると、それはもうさまざまな種類の香りがあるわけだ。意識して香りを嗅ぐと、それについて結構表現しようがあるのが分かった。
 まだまだ表現力としては未熟だが、これからもそれを続けて自然な立居振舞いに活かせればと思う。
 ずれた話を元に戻すと、ひとつひとつの語彙に対して肉付けをする必要は必ずしもない。そこにほんのり香りを載せてみて相手の反応を誘い、そこに食いついてきたらちゃんと肉付けをしてやれば、次には自分の視点を別に移すきっかけを提示したりと色々な発展が期待できる。
 はじめっから全力でなにもかも表現するのは徐行を無視した急発進の新幹線なので誰も乗りたくない。そこをぐっとこらえて紅一点、一点豪華にしておくと濃厚な香りを心地よいものに換えることができるはずだ。序破急をさをさ心得よ、ということだ。

 芥川龍之介も「文章の言葉は、辞書にあるときよりも美しさを加えなければならぬ」とおっしゃっているが、過度の美しさは醜さに通ずるのだ。

●長考禁止
 これには抵抗感のある人が多いだろうな。でもこれは是非推奨したい。
 イメチャでは小説を書くのではなく、相手とチャットすることを最大の目的としている。長考するというのはあくまで自分の納得のためであって、往々にして相手に伝わりやすいようにすることには繋がっていないし、小説ではないからいくら長考したとて質の向上はそれほど見込めないと思う。このとき文章の質はあくまで自分に向かっているため、相手への配慮の視点も抜けがちだと思っている。

 推敲は大変だよ、本当に、実際に。その時々の文章だけでなく構成も含めて推敲するべきで、イメチャでできる言葉の吟味だけではたりないと思っている。
 キャッチコピーのように一文ずつがそこで完結してしまうイメチャの文章の場合、推敲よりも自分の感性を信じる方がいくぶんかましと思う。
 なぜ完結するかというと、相手のレスのために複雑に展開が変化するからその先を自分の思い通りに運ぶことは難しい。そこでとりあえず自分の望む文章をそこにいったん込めきる作業が自分のレスとなるためである。ただし、望む文章とは自分の期待するレスを引き出すための誘い文句のようなものも含んでいる。
 考えずにそれだけの文章を打ち込み、相手のレスにさらっと返せるようになるまでは、短時間でレスする癖をつけた方が、後々いいと思う。初めから長考では、その後もっと長考になるばかりであると思うから。それと相手への配慮をもっと自分に課すべきだ。長考禁止の最大の眼目は自分本位の禁止だ。

 一応ことわりを入れておくが、これは当意即妙が絶対だという主張ではない。

 といっても、今までもぐりにもぐったつけがでているので、偉そうなことをいっていても、これらの哲学に沿った100%のレスを俺ができているかというとそんなことはなく、本当に見かけ倒しなのでまったく大笑いだぜ、ハハハ。

承前 イメチャの記5:語彙じゃぁない。三重表記だ。

2005-03-23 14:59:59 | ―イメチャ・語彙
 チャットの醍醐味はなんといっても相手との会話、相手の言葉に返す楽しみ、自分が投げた言葉に対する相手のレスである。それが最終的に物語になり、心地よい疲労が全身を襲う。完結したという満足感もひとしおで、次はどうしようかなんてまた想像力が回り出す楽しみがある。
 また、相手の文章表現の豊かさも楽しい。小説を読むのはそもそも楽しいものだ。京極堂のいうことは絶対極端だと思うが、でも一理あると思う(つまらない本などない、というせりふ)。楽しく読んでこちらも返す。向こうも楽しんでくれ、また鮮やかなレスを返してくれる――こうなるとぐるぐる回って楽しいもんだ。弾むレスのやりとりほど楽しいものはないのだ。

 しかしこの豊かな文章表現というのは擬音だけではダメで、文法の巧みさ、読みやすさ、文章の起伏・緩急(素っ気なさ、丁寧な描写)、行間を読ませる巧緻、語彙の豊かさなど、多岐にわたる。
 特に強調したいのは、豊かな文章表現とは、決して、絶対に、断固として語彙の豊かさだけではない。無駄に語彙が豊かだと華燭描写病になる。語彙を、言い換えれば単語をそこに突っ込めば変わると思っているとレスするのに15分などとかかり、掲示板でやれるだろというハナシになっていく。

 まったくちなまないが、俺は一レス2分を旨とする。3分は少し申し訳ないと思う。4分以上はまずないが、チャットルームの発言欄など環境によってありうる。5分以上くう場合はそれなりに覚悟して入室する(掲示板と思って入る)。

 表現力が豊かだ、というのは前述の通り沢山の視点が存在してひとつには決められないが、これを磨こうとすればほんとうに言うは易く行うは難しということわざを実感する。どうすれば巧くなるのか。これはもう良質な文章を乱読し、良貨悪貨を見極め、書かれている文章の意図を探り、それを繰り返す。また自分でも文章を書き、それを自分で内省し、あるいは人に見てもらうことが必要だ。素人の文章ではなくプロの文章を味読することが一番近道だと思う。

 だが我々の巧くなりたいは、残念ながらそういう切磋ではない。自分の表現にはある程度できあがったものがある。しかしそこをもう一歩ころがしたいとか、もっと実践的に巧みに見せるにはどうしたらいいかとか、そういうところであろう。本来インスタントはよくないんだけど。
 大体そんなことは俺だって求めてるわけで、そんなカップラーメンみたいな表現のパッケージがあったらとっくに手に入れてるわい・・近頃の若いもんは・・三重表記に注目、かねぇ。あくまでこれは俺の提案であって正しいかどうかは度外視していることをお断りしておく。

 三重表記とは、ひらかな、カタカナ、漢字の三種の文字を使用して文章を記すことを言う。世界でも珍しいのだ。これにアルファベットが加わって、最近では四重表記になっているが、それはさておきつ。
 この日本語特有の文字種に注目すると、かなり味のある文章に仕上がる。FTPに依存して、変換するまま確定するのは文章自体の個性を殺す。だから変換するときにはこの三重表記に少し力点をおいてみると、見た目に多少変化をもたせられる。
 簡単にいえば変換したままじゃなく、ところどころ漢字をひらがなに、ひらがなをカタカナにかえようって話だ。なんでもかんでも漢字に変換するのはあまりほめられたもんではない。ひらがなのまるみ、やわらかさ、やさしさや、カタカナのちょっと異質な空気、漢字の神秘的な呪文をない交ぜにしてほどよくかき混ぜてやるのがイイ。
 文章の意味のほかに字面という視覚的な要素に注目する表現のボリュームアップ法ですな。

 あと女性が良くやるんだが・・促音「っ」を「ッ」とすると、妙にエロい。何故だろう。おそらく雰囲気が変わるからだと思う。そう、ちょっと雰囲気が変わるというのは大切なことだ。これを目指すとかなり進化するはず。イチローではないが、本当の進化とは見た目にそれほど変わらないのだ。

 変換の時にちょっと目配りをしてやるのが、文章への愛ってモンでしょうな。

承前 イメチャの記4:「擬音のみ」を小難しく考える。

2005-03-23 14:58:26 | ―イメチャ・語彙
 イメチャにおける擬音もこの例に漏れないが、人と人とが呼応する「会話」は小説と構造が違うので、少し変形せねばならない。ために考えなければならないのは効果を考えること、使いすぎないことである。
 擬音の表現方法は直接その音を文字で模したものと、文章によって相手の想像をかき立てるものと二種類に大別されると思う。前者は「『さらさらと』葉が揺れる」、後者は「やさしい『葉ずれの音』がする」などと表現できよう。
 だがイメチャ上で擬音といったらほぼ全て前者のことを指す。むしろ悪意を含んだ言い方で使用される場合が多い。なぜなら、文章表現なしで擬音だけを積み重ね、それをイメチャとして再生している人間が非常に多いからである。

 擬音だけのイメチャについて、俺は否定しない。擬音だけを放ち、それで満足できる人が存在する以上そのことについて否定する立場にないからだ。確かな満足を得ているところが重要である。その人は満足している。だからそれはそれで良いのだ。
 しかしその人には思いやりが全くないといえる。ずんずん、とかばこばこ、とかいう擬音で自分は満足していても、相手が満足できる確率は極めて低いわけだ。さらに言えば自分のためにのみアドレナリンを分泌させ、それで自分だけを満足させ、相手の都合は考えない。やり終わって放出したら終わり。

 普通こういうのはレイプといわんか?

 相手も呼応して擬音かまたはあんあん、というアノ声のみに終始して満足が得られたならばレイプではなくなるわけだが、とにかく擬音のみで満足を得られる状態というのは、なにより欲望や女にしたいことを一番簡単な形で表出したものと言えるわけである。
 ゆえにキスをする音、胸やクリをいじる音、女性器に指を入れてかき混ぜる音、挿入・律動の音、そうして射精の音しかないのだ。しかしこれは突き詰めればチャットによるセックスの最も原始的な形を彼らは表現しているに過ぎないともいえる。

 結論。最も欲望に近づける形で端的に言葉を表現し、さらにそれで満足できるというのは、自己中心的な立場のみが最大限に発揮されている、という前提の元に最も想像力が豊かといえる。

 えらい小難しくなってしまったが・・続ける。
 われわれはその原始的な形で満足できない。それはなぜだろうか。それは二つあって、相手の反応と文章の鑑賞眼の問題である。この二つを満足させるには擬音のみでは立ちゆかなくなるわけだ。これを想像力が豊かでなくなったのかといえば決してそうではないであろう。想像力をかき立てつつ、文章を楽しみかつ相手とのやりとりをも楽しめるという、快楽が二重三重に増えただけである。
 先の言葉を借りれば、自己中心的な立場のみで発揮されうる想像力から、相手を含めた文章表現や変化に富む場面展開と、想像力発揮の前提が変わったのだ。