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一 考古学と神話

2012-01-24 20:03:07 | 日記・エッセイ・コラム

一 考古学と神話
 人類の起源については、多地域進化説もあるが、アフリカ起源説が定説であり、およそ六百万年前にヒトがチンパンジーの仲間から枝分かれし、これまでに発見された二百万年以上前の人類化石は全てアフリカで発見されている。このアフリカで誕生した人類は、長期に渡りアフリカで過ごし、百八十万年前に一部(北京原人やネアンデルタール人など)がユーラシア大陸に移動するが、現代人の先祖となるホモ=サピエンスはおよし二十万年前に誕生し、十六万年前に移動を始めたと言われている。それでもアフリカに留まり続けたのが、黒人の先祖であるネグロイドである。移動した人類は、中近東当たりで東西に分かれ、西に移動したのが白人の先祖であるコーカソイドで、東に移動したのが黄色人種の先祖であるモンゴロイドである。そのモンゴロイドの移動にヒマラヤ山脈が立ちふさがり、北への移動と南への移動に分かれる。南への移動は、五万年ぐらい前からインドシナ半島に住み始め、北への移動は、三万年前からシベリアに住み始めた。それぞれの集団は更に移動を続け、南方面に移動した集団は、更に南下してオーストラロイドとも呼ばれているアボリジニの祖先となり、北に進んだ一団は東アジア一帯に生活の場を拡げていった。シベリアに移動した集団も東アジアで南回りの集団と出会うことになる。この一団は更に一万五千年前にベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸・南アメリカ大陸に移動していった。
 東アジア一帯に生活の場を拡げていった集団の中で、特に大陸の東の端に住み着いた集団が、日本人の遠い祖先と考えられる。その代表例として、人骨化石が発見されているのが、宮古島のピンザアブ洞人(二万六千年前)、沖縄県の港川人(一万八千年前)、静岡県の浜北人(一万四千年前)である。これらは南から移動した集団であるが、また一方で北アジアで見られる細石刃を使っていたことが北海道の遺跡で解り、北からの移動もあったように思われるが、それらは寒冷地に適応した身体的特徴を有していないので、これもシベリアから南下した集団ではなく、南回りの集団が入ってきたと考えられる。これらの集団が一万二千年前に定住し縄文時代が始まる。
 縄文時代の特徴は、数多く出土した土器にある。一万二千年前にこれほどの土器を出土している地域は他にないだろう。しかし、日本列島は平野が少なく、落葉樹の森林が大半を占め、四方を海に囲まれ、その海に流れ込む川により多くの魚介類が育ち、落葉樹林からは豊かな木の実を得ることができ、食には恵まれていたのであろう。その恵まれたことと平野が少ないことによって、水稲農業は不向きであったと考えられる。そのために、世界四大文明の黄河文明の近くに位置しながら、農業技術が発達しなかったのであろう。ただ、以前言われていたように弥生時代になってから農業が始まったのではない。岡山県の朝寝鼻貝塚から約六千年前のプラントオパールが出土し、縄文時代前期の稲であることが判明した。更に五千年から四千年前の姫笹原遺跡(縄文時代中期)、四千年から三千年前の南溝手遺跡からも稲のプラントオパールが出土している。このことから稲作は縄文時代から行われていたが、技術的に発達していなかったと考えるべきである。
 四千年前気温が低下し、北方のモンゴロイドがかなり南下しており、弥生時代が始まる約二千三百年前は、大陸では春秋戦国時代で戦火に追われるなどの理由で、中国北部から朝鮮半島を経て日本列島に大挙してやってきたものと考えられる。南方から海を渡った集団もあっただろう。これらの集団が、高度な水稲技術をもたらし、一挙に生産能力が高まったと考えられる。
 ここで、縄文人、そして日本列島に逐次渡来した民族を基に、私の思いのままに、日本神話の一部分を解釈してみたいと思う。
 縄文人に近い南方系の民族には日神崇拝する神話が多く、この頃の黄河流域では小麦栽培が主流で水稲栽培は揚子江流域が中心であり、水稲技術の伝播はこの南方系からのものと思える。また、南方系の民族は海人(アマ)族とも言われており、この「アマ」が日神崇拝と融合し、「天(アマ、アメ)」の付く神々になっていったのではないだろうか。このアマ族は瀬戸内海を利用して各種のアマ族が日本全土に急速に分布し始めたと考えられはしないだろうか。そしてこのことが「国生み」伝説になったと思える。
 一方、朝鮮半島を経由して渡来してきた民族は、北方シャーマニズム文化圏の影響が強く、山上や高い木に祖先神の中でも英雄的な神が降臨すると言う信仰があり、山人(ヤマ)族と言われる集団で、剣、矛などの青銅器・鉄器を使い戦に優れていたのではないだろうか。このヤマ族も各種あったであろう。その中で、在来の民族・アマ族・ヤマ族そして派生的集団(出雲族等)等が離合集散を繰り返し、漢の時代日本列島で勢力を誇ったヤマ族の倭奴(ワノナ・ヤマト)の首長が王と認められたのではないだろうか。
 更に時代が降り魏の時代、ヤマ族の中のヤマタイ国が勢力を拡大し、倭奴国は九州南部に追いやられ、その地で出会ったアマ族と盟友となり、態勢を整え、北上したと思える。「天孫降臨」伝説の司令神としての「高皇産霊尊(高木神)」が倭奴国の首長であり、「天照大神(大日霎)」がそのアマ族の首長であったのだろう。両者の子の間に誕生したニニギ尊を天降したことと、「海幸・山幸」伝説でニニギ尊の子の彦火火出見尊(ホオリ尊・山幸彦)が海神の助言と「潮満玉・潮干玉」によって兄火酢芹命(ホデリ命・海幸彦)を降伏させたこと、更に海神の娘である豊玉姫命との孫が神武天皇であることから理解できるのではないだろうか。アマ族の神宝である鏡(八咫鏡)と玉(八坂瓊曲玉)、ヤマ族の神宝である剣(草薙剣)を正統なる首長の象徴(しるし)として用いたのもその流れであろう。
 融合し、態勢を整えた新ヤマト国は、出雲の国にも使者を送り、ヤマト国と合力するように求めた。このことが「国譲り」伝説となったのであろう。
 この後、ヤマタイ国を始めとする各地の勢力を制圧し、崇神天皇が御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)となられた御代におおよその統一がなされたのであろう。
 日本の首長としての正統性を傘下の集団や対外的に広くシロシメスために、アマ族が行っていた「一定期間籠もりて潔斎をし、一段神格化した他者とは違う存在として甦り戻ってくる」習わしを「天の岩戸」伝説として用い、ヤマ族の「山上や高い木に祖先神の中でも英雄的な神が降臨する」と言う信仰を基に天照大神の神勅「御鏡を謹祀すべき神勅・斎庭の稲穂の神勅・天壌無窮の神勅」を重ねて、日本中に鏡を祀る慣習を恒常化させ、稲作の源流と豊かな稔りを自分たちの祖先の功であるように信じ込ませ、古事記・日本書紀を編纂するとき天武天皇の跡を継いで天下を治める持統天皇にとって自分の言葉が天武天皇の意思であると示すことと、皇祖・皇宗に対する奉仕者としての天皇の在り方を示すために、高皇産霊尊(高木神)の詔を中執り持つ天照大神の姿を表現している伝説が「葦原中国の平定・天孫降臨」であり、更に「天の岩戸」伝説で岩戸に隠れたことと同様にニニギ尊を真床追衾にくるむことにより、より高貴な霊力を有する存在としてまた天照大神の甦りとして天皇が存在していることを印象づけるための伝説がこれであろう。そしてそれを模した「践祚・大嘗祭」を行うことにより天皇のご即位に正統を認めさせたのであろう。
 日本人の源流に心が傾くのは日本人として当然のことであるし、現代日本人の遺伝子情報に占める割合が混血・融合を多く行ったことにより縄文人系情報が三割、弥生人系情報が七割となっていることから自分の思考がその時々で何系の遺伝子が働いているのかを考えながら先祖と対話をしていきたいものである。
 それにも拘わらず、「古事記」も「日本書紀」も見たことのない日本人が増えていることは嘆かわしいことである。どの様な方法でも良いから神話を様々に解釈し、多くの人々で批評し合える状況が今必要だと思う。


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