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戦国武将の名言集

著者:童門冬二の人生が開ける戦国武将の言葉 (単行本)より引用させて頂いています。

徳川家康の名言

2009年12月03日 | この人にこの名言
馬鹿と思われたほうが安全だ 徳川家康 徳川家康が、まだ豊臣秀吉と事を構えていた頃、秀吉が家康の城に滞留したいという申し出をした。 これを聞いた井伊、本多、榊原という徳川の四天王の連中が、 「秀吉公を、充分におもてなしするべきでしょう」 と勧めた。 家康は首を振って城を出た。四天王が怪しんで、 「そんなことをしていると、秀吉公に愚か者と思われますぞ」 と注意した。 秀吉はこう答えた。 . . . 本文を読む

豊臣秀吉の名言

2009年11月29日 | この人にこの名言
側に置いておそろしい奴は、 遠くに飛ばす 豊臣秀吉 豊臣秀吉は織田信長の婿蒲生氏郷を東北へ異動させた。 この命令を出した時、秀吉は自分の袴を脱いで氏郷にはかせ、自分は氏郷の袴をもらってはいた。 それほど俺とおまえは親密な仲だ、これからも東北で忠節を尽くしてくれ、という意味だ。 翌日、秀吉は側の部下に訊いた。 「氏郷はどうした?喜んで東北に発ったか?」 部下は首を振った。 「口惜しがって . . . 本文を読む

真田信之の名言

2009年11月24日 | この人にこの名言
おまえたちは杉菜を食べたことがあるか? 真田信之 真田信之はある時、船で川を下った。岸に杉菜がたくさん生えていた。 信之は同乗していた部下に訊いた。 「おまえたちは杉菜を食べたことがあるか?」 部下達は、いっせいに首を振った。 「食べたことがございません」 これを聞くと、信之はニッコリ笑ってこう言った。 「いいことだ。国がよく治まっている証拠だ。かつて、武田勝頼が没落のみぎり、道端で食 . . . 本文を読む

明智光秀の名言

2009年11月21日 | この人にこの名言
大黒さまはたった千人の将ではないか 明智光秀 明智光秀がまだ浪人している頃、たまたま仲間と一緒にある川の岸を通った。 仲間の一人が川の中を見て、 「あそこには大黒さまが流れている」 と叫んだ。 光秀が降りて行って大黒さまを拾った。仲間が言った。 「大黒さまは千人の頭だ。お主はやが千人の大将になるぞ」 これを訊くと光秀はもう一度大黒さまを川の中に投げ捨ててしまった。 仲間達が、 「なぜ、 . . . 本文を読む

豊臣秀吉の名言

2009年11月16日 | この人にこの名言
『降参した者を殺してはいけません』 豊臣秀吉 豊臣秀吉が若い頃、美濃を攻略している時、美濃側の部将で大沢という人物が信長に降伏した。 が、信長はこの降伏を信じないで秀吉に、 「あいつはいつ心変わりするかわからない。腹を切らせろ」 と命じた。 この時、秀吉は反対した。 「降参した人間を殺すと、あなたの人格が疑われます。武士がいったん口にしたことは守らなければなりません。大沢に腹を切らせない . . . 本文を読む

伊達政宗の名言

2009年11月14日 | この人にこの名言
『茶碗を割ったのではない。 自分の器量の小ささを割ったのだ』 伊達政宗 ある時、伊達政宗は突然、名器といわれた茶碗を割った。 驚いた周りの者が、 「なぜ、名器をお割りになったのですか?」 と訊くと、政宗はこう答えた。 「この茶碗の値段を尋ねたら、千金だという。驚いた。しかし俺が茶碗を割ったのは、別にこの茶碗が高価だからというのではない。 茶碗の高価さに驚いた俺の器量の小ささに腹が立った . . . 本文を読む

加藤清正の言葉

2009年11月12日 | この人にこの名言
『表の並木には桜を、 裏の並木には栗を』 加藤清正 加藤清正は熊本に拠点を定めると、信仰心が強かったので寺を造った。 そして寺の門前にはたくさんの桜を植えて並木にした。裏には栗の木を植えた。 「なぜ表には桜を、裏には栗の木をお植えになるのですか?」 とある人が尋ねた。 清正はこう答えた。 「寺に参詣する人々は、桜を見て楽しむだろう。心が豊かになる。裏の方に栗の木を植えたのは、いざなにか . . . 本文を読む

真田昌幸の言葉

2009年11月11日 | この人にこの名言
『たとえ錦を着ても 心が愚かならば役に立たない』 真田昌幸 真田昌幸は信州(長野県)上田に拠点を構えた豪族で、武田、植えすぎ、北条など大勢力の間にあって、いろいろ知恵をめぐらして生き抜いた。 その子が幸村と信之だ。 関ヶ原の合戦で石田三成に味方して破れ、高野山麓九度山に蟄居した。 しかし、息子の幸村には、 「最後まで豊臣家に尽くせ」 と命じた。 高野山麓九度山にいた時、ある人が訪ねてき . . . 本文を読む

豊臣秀吉の言葉

2009年11月10日 | この人にこの名言
『謙信よ、信玄よ、早く死んでよかったな。 生きていれば俺の部下だ』 豊臣秀吉 小田原から奥州に乗り込む時、宇都宮で豊臣秀吉は天徳治という人物の夜話をきいた。 この時、天徳寺は上杉謙信や武田信玄を名称として称えた。 すると秀吉は、こういうことを言った。 「いくら謙信や信玄が名将でも、俺にはかなわない。かれらは早く死んでよかったのだ。生きていれば、必ずこんどの軍旅の供をして、俺に傘をさしか . . . 本文を読む

石田三成の言葉

2009年11月06日 | この人にこの名言
『優秀な部下には 自分の給与の半分を与えました』 石田三成 戦国時代に島左近という有名な武将がいた。いろいろな大名が口をかけたが、島左近は首を縦に振らなかった。 そのうちに、石田三成が島左近を家来にしたいという噂が流れた。秀吉は三成を呼んで確かめた。 三成は確かに島左近を家来にしましたと答えた。 秀志は、 「よく島が、おまえの家来になったな」 と訊いた。 三成は、 「私の給与を . . . 本文を読む