LiC通信

本の紹介を中心に、その時期に感じたこと思ったことを書いています。

シズコさん 佐野洋子

2008年08月24日 | 小説

私はもう人生の半ばを過ぎているのに未だに母との関係で悩んでいる。

 

「あわない」の一言にすぎてしまう。

 

何が合わないのか?

 

よくわからないが、物の言い方、気に入らないとすぐふくれる癖、いつも文句ばかり言っているところ、人の悪口が多いところ、など等。

 

悪いところばかりが目立ってしまう。

 

もち論いいところもたくさんある。

 

品があるし、料理も裁縫も上手だし、きれい好きでいつもピカピカ。

 

お弁当などいつもみんながうらやましがるほどきれいでおいしくて。

 

しかし私は母に抱きしめられたり、一緒に手をつないで歩いた記憶がない。

 

子供のころはホームドラマを見ては、「あんな家庭に生まれたかった!よそのおうち

はみんはたのしいんだろうな。」と思っていた。

 

しかしこの本を読むとそうでもなさそうだ。

 

著者も私と同じようなことを思っていた一人である。

 

読めば読むほど自分の母のことが書かれているようで不思議な感覚に襲われた。

 

そして著者も私と同じく、そんな母を愛せない自分に罪悪感を感じながらもやさしくできない日々に悶々としている。

 

老人ホームへ母を入れたことが、「私はお金で親を捨てたんだ」という自戒の念に悩まされ続ける。

 

その気持ちが痛いほどわかる。

 

いくら科学が進歩しようと、ロケットで宇宙旅行できる時代になっても、

「母と娘」「嫁と姑」という単純だが複雑な関係は人類の永遠のテーマかもしれない。

 

好きになれない母を見て、私は絶対あんな母親にはならないと思っていたが、

 

DNAのいたずらだろうか、娘との関係でやはり悩んでいるのが実情である。

 

娘も私が母に抱いているのと同じようなことを感じているのかもしれない。

 

しかし、忘れたころに第二子が誕生した。

 

今度は異性、男の子である。

 

すると如何だろう、娘との間で悩んでいたような角質はまったく起きない。

 

すこぶるいい関係が続いている。

 

人は必ず死を迎える。しかし人は必ず生まれてくるとは限らない。

 

この世に、そしてこの母の子供として生を受けたということ自体が奇跡的なことなのかもしれない。

 

みんな本当は暖かくて楽しい家族関係を望んでいるはずである。

 

しかし、どこかで何かの歯車が狂い始めていろんないたずらをするのかもしれない。

 

それも人生にとっては必然で必要なことなのかもしれない。

 

親子とは、人生とは、特に母と娘の関係についてとても考えさせられる本であった。

 

老いてぼけてしまった母を前に著者は始めて最後に「ありがとう」と言う。

 


大人の見識  阿川弘之

2008年08月11日 | 実用書

「温故知新」という言葉をご存知でしょうか?

 

ふるきをあたためて、あたらしきを知る。

 

「温」は訓読みすると「オダヤカ・アタタカイ・アタタメル」です。

 

しかしまれに「タズネル」と読まれることがあるそうです。

 

「温故知新」もその意味のようです。

 

ではなぜ「尋ねる」という字を使わなかったのでしょうか?

 

「温故知新」のこの尋ねるという意味は、

 

単に物事を尋ねるのではなく、

 

「アタタメタズネル」という意味がこめられているそうです。

 

「温めて尋ねる?」

 

「温とは、肉をとろ火でたきつめて、スープをつくること。

歴史に習熟し、そこから煮詰めたスープのような知恵を獲得する。

その知恵で以って新しきを知る」ということだそうです。

 

「見識」を広辞苑でひくと次のように書かれています。

 

「物事について見通しを持ったしっかりした考え。」とあります。

 

物事をただ「知っている」という知識だけでなく、

今のその状況においてその知識がどう当てはまりどう活用され、

そしてその結果どうなるかという先の見通しまでも持てる、

そういった考えが「見識」ということではないでしょうか。

 

つまり、にわか知識では得られないことです。

肉をとろ火でゆっくりゆっくり煮詰めておいしいスープを出すごとく、

今までの経験や先人たちの知恵、それらを総合的に身につけ、

そのうえで自分なりの意見で行動を起こす。

これが大人の見識なのでしょう。

 

著者は海軍に入り中国で終戦を迎えました。

旧制高等学校に入学してから70年。

この長い人生の経験、実体験、読書体験などさまざまな知識を得、たくさんの経験を積まれてきました。

 

本文の最後の一ページに「温」の書が堂々と書かれています。

この本は本人にとって、「心に残った知恵ある言葉の展覧会を開いた様だ」と締めくくられています。

「ついては、終わりの終わり、会場の出口のところへ「温」の一文字を書いて飾ります。皆さん素通りせずゆっくり鑑賞して言ってください。」

 


「粗食」はいきること  幕内秀夫

2008年08月06日 | 生活

原油の高騰が、私たちの生活に大きな負担をかけています。

 

ガソリンの値上げ、食品の値上げ、

 

多くの中小企業者が、原材料の値上げに価格転嫁できずに大変な思いで仕事をされています。

 

 漁業も操業すればするほど赤字が続き困難な状況になっています。

 

この先どうなるのか不安材料はいっぱいです。

 

でもあのオイルショックのときも見事に立ち直りました。

 

 不安は残るものの、この原油の高騰も元をただせば、投機によるもの、人員的な操作です。

 

だからいつかは収まるでしょう。

 

反面このおかげでよいことはないでしょうか?

 

車の走行台数が少し減ったようです。飛行機の減便も余儀なくされています。

 

小麦粉の値上げで、パンや麺類も値上げ、そのおかげで日本人の本来の主食であるお米が見直されてよく売れているそうです。

 

この二つは環境にも、私たちの健康にも、よいことだと思います。

 

もともと私たち日本人はお米を主食に生きてきました。

 

しかし、敗戦後アメリカの政策により私たちの食生活も大きく変わりました。

 

そのことの付けが最近はいろんな病気という形で現れてきています。

 

つまり体に合わない食事を強いられた結果ともいえます。

 

しかし、今たくさんの人たちがそれに気づき始めました。

 

地産地消、身土不二という言葉で知られるように、土地でできたものを旬の時期にいただく、これが一番理にかなった食事方法です。

 

しかし私たちが本来主食としていたお米が自給自足できない情けない状況にあります。

 

「粗食」ということは粗末な食事という意味ではありません。

 

当たり前の食事という意味です。

 

古来から食されてきたお米と一汁三菜という食事のことです。

 

現代人の食事は間違った栄養学にもとづく間違った食生活のようです。

 

基本はご飯、これが主になる食事です。

 

「食欲のないときにご飯は残していいからおかずをしっかり食べなさい、」と皆さんも子供もころいわれてきたでしょう。

 

これがどうも間違いのようです。食欲のないときは、お茶付けでもいいからご飯をしっかり食べることです。

 

お米には栄養がないと思っていませんか?

 

今のおかずは、昔の三菜ではなく高カロリーのもが多いです。

 

一時コマーシャルではやった「たんぱく質がたりないよ」という言葉で

日本人はたんぱく質不足だからお肉を食べましょうという運動があったそうです。

 

お肉でなくても野菜でも上質のたんぱく質がたくさん取れます。

 

現代食は「五無」食です。無国籍、無地方、無季節、無家庭、無安全。

 

栄養学とはそもそも何なのでしょうか?

 

パソコンをたたいてカロリー計算することが科学的ですばらしいことなのでしょうか。

 

昔はカロリー計算しなくても、地元で取れたてのものを感謝しておいしくいただいてきました。

 

みんな元気でした。

 

今の食事に求められていることは、「命をいただいて感謝する」ということと、

昔からの「食文化」には大きな意味があるということをもう一度見直すことではないでしょうか。

 

30品目バランスのよい食事をといわれますがそんなにたくさん食べなくても大丈夫なようです。

 

小林正観さんによると、なんでもおいしいおいしいといっていただくと

それに添加物が入っていようが農薬まみれであろうが、

体内で変化してきっちり私たちの栄養になってくれているそうです。

 

結論。

 

その地域で取れた旬のものをおいしく感謝して何でもいただく。

 

そして主食はお米。

 

私たちの日本食は、もともとお米に会うようなおかず、味付けになっています。

 

おじいちゃんおばあちゃんが作ってくれた懐かしい食事に戻りましょう。

 

きっと健康も環境も取り戻せるはずです。

 

糠付けにご飯がおいしい季節です。