『鉄の蜜蜂』(2017)は岡井隆の第34歌集。
感情の最後の小屋が燃えてるつて(大きな声で言つたか 君は)
文語訳聖書を読みて寝ねむとす大河のそばつて早く経(た)つんだ
詩はつねに誰かと婚(まぐは)ひながら成る、誰つて、そりやああなたぢやないが。
暗喩によって内面や意識を掘り下げてゆくような、こういう歌が相変わらずかっこいい。「感情の最後の小屋」、ここに「小屋」が来ることの凄み。ひとの感情の、あらゆる激しさが絞り尽くされたのちに、その「小屋」はぼろぼろとゆっくり燃え落ちてゆく。痛ましく、寂しい感じがする。「君」はそのとき、叫んだのか。黙ったのか。
寝る前に読む文語訳聖書の荘厳さを「大河」と言う。聖書の文体や物語にどうどうと力強く水が流れるのを感じるうちに、いつのまにか時間が経っている。「早く経つんだ」のような、こういう口調にあらわれる岡井隆独特の色気はなんだろう。渋いような、甘いような、不思議な色気。
次の歌もいかにも岡井調で、ひとりごとが途中から誰かとの対話になってゆく。一首が途中でほどけ、開かれてゆく。「そりやああなたぢやないが」の「あなた」が一瞬、この歌を読んでいる自分のことのように思えて、びくっとなる。
傾いていくつてとてもいいことだ小川もやがて緋の激流へ
忘れたいからこそ写生(スケツチ)してるんだ花水木の蕊と暗いその樹皮
いやあむしろ忘れるために今がある季節の外に合歓(ねむ)は咲いてて
あまのじゃく。というか、世間でこうだと思われていることをまったく悪びれずに反転させているのが面白い。「傾いていくつてとてもいいことだ」は年齢、時代、思想などいろいろな含みを想像する。「忘れたいからこそ写生してるんだ」「いやあむしろ忘れるために今がある」も考えさせられるフレーズだけれど、そもそも忘却ということへの強い拘りがあるからこういう表現になるので、そうすると単なる反転とは違うのかもしれない。「忘れたくない」の反対は「忘れてもいい」であって、「忘れたい」ではない。「忘れたくない」と「忘れたい」はむしろ近い。
若者が入りたがらぬのも尤(もつと)もだ此処(ここ)荒野(あらの)それに雨も降つてる
いやあ彼らの立つてゐるあの場所こそが荒野なんだと知らないのかい
数千年の時を伝つて来るものをヘンだと思はない方が変
稲妻のあと雷(いかづち)の来ぬやうなそんな批評もないではないが
宴(うたげ)には加はるがいいしかしその結末からは遠退(とおの)いてゐよ
〈正しい!〉と鹿の啼きあふ苑だから挨拶は きみ あへて短く
あとはこういう、短歌や歌壇への皮肉めいた歌にも注目した。1首目と2首目は、結社に所属したがらない若い歌人たちへの心寄せ、という文脈で読める。3首目と4首目は短歌の批評性について。5首目と6首目は歌人同士の集まり(批評会とかパーティー)にありがちな馴れ合いや内輪褒めのような空気を、批判的に見ている歌と読むと痛快。こういう歌が歌集の随所に出てくる。「稲妻のあと雷の来ぬやうな」「鹿の啼きあふ苑」など、喩がいちいち魅力的だから、全然理屈っぽくもお説教臭くもない。もっと読みたいと思った。
死にたいといふ声がまた遠くからきこえる午後を茶葉で洗ふ歯
感情の最後の小屋が燃えてるつて(大きな声で言つたか 君は)
文語訳聖書を読みて寝ねむとす大河のそばつて早く経(た)つんだ
詩はつねに誰かと婚(まぐは)ひながら成る、誰つて、そりやああなたぢやないが。
暗喩によって内面や意識を掘り下げてゆくような、こういう歌が相変わらずかっこいい。「感情の最後の小屋」、ここに「小屋」が来ることの凄み。ひとの感情の、あらゆる激しさが絞り尽くされたのちに、その「小屋」はぼろぼろとゆっくり燃え落ちてゆく。痛ましく、寂しい感じがする。「君」はそのとき、叫んだのか。黙ったのか。
寝る前に読む文語訳聖書の荘厳さを「大河」と言う。聖書の文体や物語にどうどうと力強く水が流れるのを感じるうちに、いつのまにか時間が経っている。「早く経つんだ」のような、こういう口調にあらわれる岡井隆独特の色気はなんだろう。渋いような、甘いような、不思議な色気。
次の歌もいかにも岡井調で、ひとりごとが途中から誰かとの対話になってゆく。一首が途中でほどけ、開かれてゆく。「そりやああなたぢやないが」の「あなた」が一瞬、この歌を読んでいる自分のことのように思えて、びくっとなる。
傾いていくつてとてもいいことだ小川もやがて緋の激流へ
忘れたいからこそ写生(スケツチ)してるんだ花水木の蕊と暗いその樹皮
いやあむしろ忘れるために今がある季節の外に合歓(ねむ)は咲いてて
あまのじゃく。というか、世間でこうだと思われていることをまったく悪びれずに反転させているのが面白い。「傾いていくつてとてもいいことだ」は年齢、時代、思想などいろいろな含みを想像する。「忘れたいからこそ写生してるんだ」「いやあむしろ忘れるために今がある」も考えさせられるフレーズだけれど、そもそも忘却ということへの強い拘りがあるからこういう表現になるので、そうすると単なる反転とは違うのかもしれない。「忘れたくない」の反対は「忘れてもいい」であって、「忘れたい」ではない。「忘れたくない」と「忘れたい」はむしろ近い。
若者が入りたがらぬのも尤(もつと)もだ此処(ここ)荒野(あらの)それに雨も降つてる
いやあ彼らの立つてゐるあの場所こそが荒野なんだと知らないのかい
数千年の時を伝つて来るものをヘンだと思はない方が変
稲妻のあと雷(いかづち)の来ぬやうなそんな批評もないではないが
宴(うたげ)には加はるがいいしかしその結末からは遠退(とおの)いてゐよ
〈正しい!〉と鹿の啼きあふ苑だから挨拶は きみ あへて短く
あとはこういう、短歌や歌壇への皮肉めいた歌にも注目した。1首目と2首目は、結社に所属したがらない若い歌人たちへの心寄せ、という文脈で読める。3首目と4首目は短歌の批評性について。5首目と6首目は歌人同士の集まり(批評会とかパーティー)にありがちな馴れ合いや内輪褒めのような空気を、批判的に見ている歌と読むと痛快。こういう歌が歌集の随所に出てくる。「稲妻のあと雷の来ぬやうな」「鹿の啼きあふ苑」など、喩がいちいち魅力的だから、全然理屈っぽくもお説教臭くもない。もっと読みたいと思った。
死にたいといふ声がまた遠くからきこえる午後を茶葉で洗ふ歯