きんいろなみだ

大森静佳

山中智恵子第10歌集『喝食天』

2018年03月30日 | 短歌
鳴きのぼりつつ光のなかに失せてゆくひばりよとはにわが手のがれよ

ひばりよ、とはにわが手のがれよ。
強く希求する一方、自分で自分を押さえつけてしまうような
相反するふたつの感情の動きがきらきらとクロスする。
私は自分の手のおそろしさを知っているのだ。

一昨年から続けてきた山中智恵子を読む会は、いよいよ全歌集の下巻に入りました。第10歌集『喝食天』(1988)は作者の年齢で言うと六十代前半、782首が収められた歌集。『星醒記』『星肆』『神末』と3冊にわたって夫の挽歌をうたいつづけてきて、次の『喝食天』ではもう少し違った意志的なもの、そして物語の情熱が激しく噴出する。

たましひを打たむとせしが肉を撃つ面のまことを存在といふ  
肉に深く傷つくものを面といふリルケ、ロダンの秋ふかかりき


主題制作の試みが目立つ『喝食天』のなかでも特に大作が「面百詠」。「百詠」と言いながら、じつは100首ちょうどではなく119首あるこの一連、地元三重の友人であった能面師・丹羽征夫との交流を背景に、めくるめく多くの能面が登場し、能面と能面が見つめ合い、声を聴き合い、ときに打ち合う。なかで、上に挙げたような思索的な歌に惹かれる。「存在」とは結局、魂だけでは成立しえず、根源的に「肉」であることの痛みや傷を負っている、そういう苦しさだろうか。

面こぼつまで抱かれしかな斎王のくちびるうすき秋の日の翳  
喝食のすねこぶらめでて斎王のわななきたまふ唇(くち)のうつくし
喝食のひるがへる空つねに飢ゑしモーツアルトのむすぶ種の翳 


歌集のタイトルにもある「喝食」は禅宗のお寺ではたらく少年の能面で、山中智恵子はこの「喝食」と斎王(伊勢神宮に仕える未婚の女性)との危うい恋とエロスの世界を展開してゆく。うすき唇、わななきたまふ唇。唇への執着がすごい。2首目の「すねこぶら」(脚のすね+こむら)も何というか、語感が不気味。かと思ったら急に、永遠の少年性みたいな連想からでしょうか、モーツァルトに飛ぶ。

そのほか好きな歌
〈青とはなにか〉この問のため失ひし半身と思ふ空の深みに 
一寸の青をもとめて行きたりし遠からずわが青に死なむを
寂寥を蜜蜂の巣にかへせとぞ巣を編むものの叫びゆきたり 
見ることは問ふことなれば秋の野の一輪の花流れゆくはや 
鳥問ひつめる眸のごとくありにしをジャコメッティとなづけしひとや
樹液こそにあふれ泪なすとクレーはいひきこの春の夜の夢



言葉は物より旅立ちゆくかふと秋のふかまるときの感情にして
物が意味の形をとりて歌となるひびきのごとき秋に在りたり

といったメタ的な歌はどの歌集にも必ずある。

累々と子を生すものの頂に斎王立ちて子のなきはすずし
は葛原妙子の「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり 」『橙黄』を受けつつ。

幻想の祖国を視たり夢のなかに天皇退位あたためゆかむ
など、この次の次の歌集『夢之記』における昭和天皇挽歌に先立つような一首もすでに出てきている。