「鬼」というのは、ある種自分の鑑のような存在なのかなと思います。 恐ろしい形相でにらみつける彼が、人が創り出した想像上の「怪物」なのだとしたら、追い払うべき「邪悪なもの」「邪気」は、やはり自分の内側にこそあるのでしょうか。 子どもたちの無心で豆を投げつける姿と、鬼が去ったあとのほっとした何ともいえない表情に、ぼくたちも何かしら安堵のようなものを感じるのはなぜなのでしょう。 子どもが、それぞれの胸の内に創る虚構の世界が、確かにそこに存在したことへの安堵なのかなあと思います。