未来を拾いに

aikoのことしか頭にないひとのブログ

この世界の片隅に

2016-12-06 22:43:48 | 映画

先週の土曜日、ユナイテッドシネマとしまえんでみてきました。例によってネタバレありなのでネタバレが困る方はここから先はみてはいけないぞ!ではスタート!

 

 

 

 

 

 


この映画ももともとアンテナに入ってなかったんですが、口コミで知りました。戦時中の呉と広島を描いたアニメ映画があると。ネットで検索して公式サイトの絵をみたら、「夕凪の街 桜の国」の絵に似てるじゃないですか。そのことをいうと、そのひとの漫画が原作であると。

これはみなければ!

ねぇ。

 

2016年の流行語大賞が記憶に新しいですが、その中のひとつに「聖地巡礼」というのがありました。別に流行語としては流行してはいないと思うのですが、まぁ、聖地巡礼自体は以前に比べたらやるひとも多くなっているのかなぁ、という感じはします。私はアニメでそういう趣味はないのですが(そこまでするほどアニメファンではない)、aikoのPVのロケ地とかいったりするので、その気分はわかるつもりです。いいものですよね。


私は広島で生まれ、13歳の夏までを広島市西区南観音で過ごしました。「南観音」は、劇中に出てきた「草津」「古江」と、「江波」の間の洲にあります。そして、父方の祖父母が戦前からずーっと、数年前に亡くなるまで呉に住んでいました。「呉市西惣付町」というところです。呉市の北の端っこの山あいです。

この「この世界の片隅に」。のっけの最初から広島が舞台です。広島以外のひとはおいてけぼりの広島弁に、広島以外のひとはおいてけぼりの地名や風景。それもそれがとてもリアルで、広島出身の人間からすると「あるある」の連続なんですね。実際に広島に住んだことがあったり、広島出身のひとだったり、そうでもなければ相当に広島を取材した人がつくった映画だなーというのが伝わってきました。

これが懐かしくて。

そして、これだけでも懐かしいのに、すずちゃんが呉に嫁いできた先の景色がこれまためちゃめちゃ懐かしかったんですよ。

まずは呉線。広島から呉線に乗って、右手に瀬戸の海を望んでね。駅は、「むかいなだ」「かいたいち」「やの」「さか」「こやうら」「てんのう」「よしうら」って劇中にも出ていました。子どもの頃いちばんに覚えた駅名なので今でも覚えています。今のJRは駅のホームにある看板は漢字だけど、当時は平仮名だったので、子どもの私にも読めたのです。

今はもっと駅が増え、電車の編成も4両編成とか短くなったようですが、昭和50年代は8両編成とか、もっと長かった。呉の手前に「かわらいし」ってマイナーな駅があってね、何時間かに1本だけはその駅に停車するのがあって。それに乗ると珍しいから当たりな気分だったり。

祖父母のうちにいくときは、電車の中で食べるお菓子を買ってもらえるので、それが楽しみでした。座席は4人が向かいあわせに座れるボックスタイプ。電車にはトイレがついてましたよね。で、車掌が乗ってた。客席には灰皿が常設で備えてあって、タバコも吸い放題。当時は国鉄の分割民営化の前で、駅の改札では駅員が鉄の鋏で紙の切符をパチパチ切ってたものだから、改札の床は切符の切りくずがいっぱいでした。思えば電車の風景もいろいろ変わった。変わってないのは、「小枝チョコ」「たけのこの里」「コメッコ」とか、駅の売店で買えるお菓子だけかも知れない。

呉線は地図をみると分かるのですが、瀬戸内海沿いを呉に向かって進むので、上り方面(広島→呉にいくとき)は、右手が海になります。映画でもそうでしたね。これが実にいい風情なので、広島に旅行にいくことがあったら是非呉線にも乗ってください。で、左手はどうなっているかというと山や畑が見えるのですが、こちら側には昔のトンネルの遺構がありました。最後に呉にいったのは数年前ですが、たぶん今でも残っていると思います。映画のすずちゃんの時代は、こちらの廃線跡のときだったのでしょうか。

私が物心ついたときには当たり前でしたが呉線は電車でした。記憶に残ってるのは写真のようなデザインのやつ。

電車の脇には「モハ」とか「クハ」とか「クモハ」とか書いてあってね。意味はわからなかったけど、いろんなところに書いてある文字を読むのが好きな子どもでした。


「この世界の片隅に」の世界の当時は蒸気機関車、SLですよね。トンネルに入る手前で、乗客が窓を締めて、煤が車内に入ってくるのを防ぐシーンがあります。あの話も祖母がよく話してくれました。昔はトンネルに入ったら窓を閉めよったんじゃで、みたいにね。

私の父は呉三津田高校の出身です。父から昔の呉の話をきいたことはあまりないのですが、父が子どもの頃は二河球場で南海ホークスがキャンプをしていて、野村選手(克也)とかを見にいったんだって。野村さんは「子どもにすごく優しかった」っていってた。で、大学にいくために上京してね。就職も東京で。そこで母とであったわけですな。今は割と当たり前なのかも知れませんが、当時はわざわざ広島を出て東京の大学にいくって勉強できる君街道ですよねぇ。で、新幹線はなかったので、SLで東京にいって。そう、昭和40年くらいまではまだまだ日本はSLだったみたいですよ。今は4時間切るくらいでいけてしまうけど、当時はもっとですよね。ほとんど1日中汽車に乗っていくような感じだったって。

で、広島のひとは、お年寄りは今でも電車のことを「汽車」っていうんですね。「電車」とは言わない。国鉄は長いことずっと「汽車」だったからというのは勿論ですが、広島には市電があるので、そっちのことを「電車」「チンチン電車」と呼ぶからでもあるのです。電車じゃのうて汽車。でも、もう国鉄も電車じゃん、だから、汽車っていうのも変だし何て言えばいいの?っていう子どもの私の素朴な質問に周囲の大人は「列車」っていえばいいと。そうって教わったけど、いま思えば適当な教えだよねそれ。そういうことがあったので、私は中学に入る頃まで電車のことは「列車」っていうんだと思ってたよ。だから、所沢に引っ越してきて、西武線のことを「電車」っていっていいのかな?っていう謎な違和感があったりしたよ。

ちょっと話が逸れましたが、そんなこんなで、呉の祖父母のうちには1ヶ月に1回はいっていました。思えば、うちの両親は親孝行だったのか、けっこうな頻度で実家に行ってたんだなあと思う。私が実家に行くのは年に1~2回だからな。やっぱり結婚して子どもがいると、親も孫の顔がみたいし、そうなるんでしょうかね。

だから、この呉線の車窓の風景はすごくよく憶えています。

呉駅で、駅のホームにすずちゃんが着くと、「くれぇーーークレェーーー」ってアナウンスが響いてましたね。昭和50年代もそんな感じでした。「くれぇーーークレェーーー。ここはクレです。どなたさまもお忘れものないように…」って。イントネーションが映画と同じ(笑)祖母はよく「なにをくれぇ(=ちょうだい)いいよるんかのーおもうわいね」って笑ってた。

呉駅もいまはきれいな建物になりましたが…今の駅舎になったのはいつ頃だったかなぁ。

呉駅前のロータリーから祖父母のうちまでは、呉市営バスで30分くらい。呉市役所の脇を通って…呉市街から左折して山に向かう細い道に入り(バスが通るにしてはほんとうに細い)、坂道を上がったところに、川と橋のある踊り場のような広い場所があります。そこが終点の「辰川」停留所。

「辰川」って劇中に出てきたでしょ。「たつかわ」と読みます。すずさんが嫁いだ北條のおうちはこの辰川で降りてた。今はもう寂れていますが、「辰川」のあたりも当時はもっと活気がありました。停留所の前にはスーパーや魚屋さんがあったけどもう閉店して久しい。公園では子どもが遊んでいて、駄菓子屋さんもありましたが、その風景ももうありません。どこもそうですよね。昭和の頃はもっと地方に元気があったけど、今はもう高齢化少子化が進んで、若い人は都市部に住むから。

「辰川」の停留所の前にあったスーパーのことを、祖母は「配給所」と呼んでいました。「配給所にいかにゃ(台所には)はぁないで(=もうないよ)」って。最初はなんのことだ?って思ってましたよね。


映画の話はずーっとそっちのけになってますが、こうやって知ってる場所(言葉もなにもかも)が次から次へと途切れることなくどんどん出て来るものだから、そして絵の描写の細部のリアルにこだわっているのがすごくわかるから(電信柱についてる看板の広告の文字とか!)、ストーリーよりもそっちのほうばかり見てしまって、そして懐かしい記憶がどんどん思い出されて…っていう感じ。だから、ここからもこんな話が続きますすみません。


祖父母のうちは、「辰川」停留所で降りて(といっても終点なので降りなければいけない)、さらに坂道をずーっと登って、登りきったところにありました。そう、呉は坂のまち。これがけっこうな急な坂で。スキー場の上級者コースくらいの角度はあるんじゃないですかね。祖父母も高齢になるにつれ坂を上り下りするのがすごく大変そうで。ゆっくりなスピードでよちよちとちょっとずつ。「たいぎいたいぎい」っていって歩いてた。で、ちょっと一休みで後ろを振り返ると、そこに広がるのがすずちゃんが山から海のほうをみた景色になるんです。あんな感じに!夜は夜景もきれいでねーー!星もきれいなのでこちらも是非。

夏休みのお盆にはお墓参りにいくでしょ。お墓はうちからさらに山のほうに上ったところにありました。広島や呉のお墓には写真のようなカラフルな紙の灯篭を立てる風習があります。うちは宗派が違うのか何か理由があるのかやってませんでしたが、よそのお墓はたいていこういうのを立てる。これは広島以外の地方で見たことがないので、独特の風習なのだと思います。

これも映画に出てましたよ。お墓参りのシーンでお父さんが持ってた。広島のひとが見たらぴーんとくるところですよね。広島市内のお墓の墓石をみると、「昭和20年8月6日」や「8月7日」、もしくは1ヶ月以内に亡くなった人がいかに多いかというのを伺い知ることがきっとできると思います。


夏休みは山にいって朝から晩まで虫捕りして遊びました。今は山はならされて木も伐採されて宅地や駐車場になって、道路はアスファルトで舗装されたけど、昭和50年代はまだまだ自然がいっぱいだったんだよ。特にセミがいっぱいいてね。朝から晩までセミの鳴き声がもう大合唱ですよ。いちばん多いのがアブラゼミ。で、木を見上げるとびっしりくっついているのがクマゼミ。東京にはいない、黒くて、でかくて、オスのお腹にはきれいな蛍光オレンジの発声器官がついててね。「シャーシャーシャーシャー」っていうか「ワシャワシャワシャワシャ」っていうかそんな感じで鳴きます。これが高いところにとまっているから、虫捕り網の竹竿をさらに継ぎ足して長ーくしてな。夕方はツクツクボウシな。こいつは小さくてすばしこくて速いから捕まえるのは難しい。アブラゼミはいちばんぼーっとしてて、低いところに止まってて、手でも捕まるやつ(笑

セミの季節は木の下の地面にいっぱい穴が開いてるでしょ。セミの幼虫が土から出てきた穴の跡です。夕方から夜は懐中電灯をもって木の下を探すと、羽化のために出てきたセミの幼虫を捕まえることができました。これをうちにもって帰って、カーテンや何かに捕まらせて一晩中見てると、羽化するのです。これもきれいでね、こういう体験を子どもはしたほうが絶対いいと思いますよ。

セミといえば、「この世界の片隅に」をみて、唯一違和感があったのが、この夏のセミの鳴き声だったんですよね。そう、呉の山には「ミーンミーンミーー」って鳴くセミはいないのです。まぁ、気候の関係で、昭和50年頃にはいないけど、昭和20年頃にはいたんだよ!だったらごめん。


セミのほかには、よく憶えてるのがホタル。このあたりは山から小さな川が流れてきててね。だんだん大きくなって呉湾に注ぐのですが、その源流みたいなところで。小さい頃はホタルを見ることができました。けど昭和50年の前半までだったですねホタルいたの。「ほっほっほーたるこいこっちの水はあーまいぞー」って歌ってるとホタルが出てくるのよ。この歌しってる?

川といえば、この川沿いにオニヤンマが飛んでたので、それも楽しみな獲物のひとつでした。オニヤンマはでかくて、目玉はグリーンで、身体は蛍光イエローと黒のシマシマでかっこよかったですよね。これもスピードが速いので捕まえるのにはコツがいってね。基本動作が川沿いにツーイツーイと往復するので、それを待ち伏せして、ツーイと一瞬止まるところを後ろから、もしくは下からさーっと網を入れると捕まえることができます。そういう方法は父から教わった。これも一種の伝承の名人芸だと思うけど継承してくれる子どもも虫が捕まえられる自然も失われてきてるわけだよもったいない。

そうそう、そのへんのおうちではこの川から自作でトイをつくって庭に水をひいて池をつくって、錦鯉を飼ってたりするんですが…祖父母のうちにも池があって、錦鯉が泳いでて、これに毎朝餌をやるのもおもしろくて、それも楽しみでした。夏祭りで金魚すくいをやってゲットした金魚も、この池に放して。たいていは1年もしないうちに死んでしまうんだけど、1匹だけすごく長生きした黒出目金がいて。10年くらいは生きてたんじゃないですかねぇ、指の先っちょくらいしかなかったのが両手の平くらいの大きさになった!

庭の池もですが、映画では玄関の脇に四角い鉢の盆栽が置いてあって、その先に海が見えるシーンが何度かあったでしょ。ああいう盆栽をこのへんのおうちはよくやっていました。ほんとうにああいう風景がこのあたりにはありました。

山のほうの池では、ウイスキーを染みこませた食パン丸めたやつでフナが釣れました。竿に浮きと針つけただけのシンプルなやつね。こうやって父が子どもの頃に呉の山でやった遊びを朝から晩までやってたよ。(その池も平成になって大人になって再訪したら埋められて児童公園に変わっていましたが)

山にはお墓だけじゃなくて畑もありました。ちょうど、すずちゃんが畑でタンポポをつんだり、空襲でグラマンに機銃で撃たれたりしてたでしょ。ああいう感じの場所です。あんな風に、山の斜面を段々にした畑をうちの祖父も作ってやっていました。サツマイモが取れる頃には芋掘り!これも楽しかったよー。あとは花や野菜を育てたりしてたのかな?花にはアゲハチョウとかがくるのでそれを捕まえたり、大きなキリギリスやカマキリがいたりもしたよね。運がいいとミヤマクワガタやノコギリクワガタもいました。用水路にはイモリやサワガニがいましたね。


…話がすごく長くなっていますが続く。
祖父母のうちの話ね。あと、これは戦争の時代を描いた映画なんで、その話もしないといけないというか、書いておきたい。

日が暮れて、うちに帰ると、お風呂の支度の手伝いというか、「お風呂当番」でした。昔のお風呂はガスではなくて、マキを燃やして焚くんです。マキは鉈で4つに割ってね。それをうまい具合に組んで、新聞紙をうまい具合に丸めて、細いマキから太いマキに火が移るように燃やすわけだ。これが楽しくてねぇ。火遊びですよねw 子どもは残酷なのでいろんなものを燃やして遊んだよ(°Д°)

祖父母のうちも、すずちゃんちのように坂の途中にあって、部屋の雰囲気もあんな感じでした。昔の家、って感じですよね。子ども心に夜はちょっと怖かったりもしたけど。ボーンボーンと時刻を知らせる時計があって、柱は黒くて太くて、壁は塗ってあって、ふすまで畳で…っていう。で、掘りごたつ。夏は蚊帳で蚊取り線香。そして仏壇がある。

仏間には、軍服をきた若い男の人の写真と、私の知らないお爺さんお婆さんの写真の3枚が飾られていて。それぞれ誰なのかは昔きいたことあって、祖母の父、母、兄?だったのかな?あとは、天皇陛下の御璽が押された何やら賞状みたいなものも飾られていて。あれは勲章か何かをもらったときのやつだったのか。

祖父母は10年ほど前、相次いで亡くなりました。そのときに家も売って整理してしまったので、当時祖父母のうちにあったいろんなものも、思い出だけを残してなくなってしまい今はもうありません。が、整理していると、私はもちろん、父や父の妹弟も見たことがないような昔の写真とか、古い戦時中の本とかがいっぱい出てくるわけ。中国大陸のどこかの村で撮ったらしい写真とか。水牛を使って田んぼを耕していたり。軍艦のブロマイドとか?なにやら手帳とか。身内の誰かが戦死したみたいなんだけど、その最後の様子を淡々と記録した電報みたいなやつとか。

なんでそういうだいじなことが誰も知らないのか、って話なんですが、祖父母がそういう話をしたがらない人だったから、なんだと思います。私もですが、親父もなんにも知らないから。

祖父は若い頃には軽巡「鬼怒」に乗って、中国大陸に行ったそうなんですね。で、いったん帰って、その後は衛生兵として病院船「高砂丸」に乗ってたそうなんです。が、分かっているのはそのことだけで、戦争の話はほんとうに一切しない人でした。「したくない」っていって。戦争映画をテレビでやるじゃん。あれも大嫌いで。「戦争のテレビはつけんといてくれーや」っていつもいってた。だから、祖父から戦争体験は全く聴いたことがなかったんです。

私は子どもの頃から、「ウォーターラインシリーズ」っていう、当時の軍艦のプラモデルが好きでね。で、「大和」とかも作るじゃないですか、呉だから買ってもらって。祖父も手伝ってくれたことがあってね。これは呉でこさえたんで。って。遠い目をしていってた。ほんとうにそれくらいの話しかしたことがない。

だから、そういう遺品を見てたら、もっと話をきけばよかったって思いましたよね。

父は私と正反対で、理系のひとで、歴史というものに全く興味がないので、こういうのも全部捨ててしまえって感じでしたが、私はどうにもこれを捨ててしまうのはどうなのか、という気がしてね、いくつかを保護してもって帰ってきたのが今でもうちにあります。

こんなのとか。「昭和16年4月入団 第4期海軍工作科予備補習生記念写真帖 呉海兵団」と読めます。詳しくは全くわかりませんが卒業アルバムのようなもののようです。

他の写真とかも全部持ってくればよかったなぁ。うちの話ですが、あのときはみんな大喧嘩でめっちゃゴタゴタしていたんで;


祖母は、祖父に先立つ2年くらい前に亡くなりました。私はお婆ちゃん子でね、初孫だったこともあって、本当によく可愛がってもらいました。

祖母は、ずーっと呉で暮らして、呉で亡くなりました。とにかく女学生の頃からずっと呉の人です。祖父が鳥取から海軍で呉にきて、それで祖母と結婚したんだって。

大和ミュージアムにいくと、1945年8月6日午前、呉から広島方面を見た有名な写真を見ることができます。呉から見た原爆のキノコ雲の写真ね。映画にも、この日のこのときの様子は描かれています。ピカって光って、「いま光らんかった?雷かの?」っていったあとにちょっと間があって、爆風が呉の街にも襲ってくるという・・広島から呉ってけっこう離れているんですよ。電車で40分くらい?なので。けど、ほんとうにあんな感じだったんだろうと思います。

祖母も戦争の話はしない人でしたが、祖母は「原爆の光をみた」「怪我しんさった人がようけきてな」「恐ろしい」っていってました。
大和とかが呉のドックで建造中のときは、カーテンとかで厳重に隠されてたって。とはいえ、でかいから軍艦なんて山からとかでも見えるじゃん。でも、それが見える場所にいって海を見てると怒られたっていってた。海軍の機密だっていってね。映画にもそんなシーンが出てきますね。

呉といえば海軍の街で、呉鎮守府や海軍工廠の跡をみることもできます。平成になって「大和ミュージアム」っていうのもできたけど、もちろんそこも見たらいいと思うけど、ちょっと足をのばして「ブラタモリ」ばりに「痕跡」を探すのもいいと思いますよ。旧海軍工廠のあたりは歩くだけでごろごろ見つかるから!そのことはこっちにもちょびっと書いてるのでそっちもみてね。

【番外編】LLP17@広島 後編


あとはそうだ。白いシャツの学生たちが校庭でラジオ体操やってるシーンがあったんです。その校門のデザインが、当時の辰川小学校の校門にそっくりだったなぁ、とか。帰って当時の写真残ってないかなと思ってネット検索したんですけど、ストリートビューでは今はもう廃校になっていて、跡は住宅地になっているんですよね。けど、記憶には残っているんです。辰川から呉駅にいく市営バスの途中の景色だったので。当時は昔の赤レンガの塀でできた校門だったんですよ。映画の絵はその景色にそっくりだったんですよ。たぶん、「今の景色」じゃなくて、「当時の景色」を再現するために、相当な取材を重ねているとおもいます。昔の写真を元に絵をつくったりとか、絶対しているはず。

あとは遊女の街のシーンかな?電柱に「千福」の看板。こちらはお酒の看板です。その文字のデザインも忠実に描いてあってね。呉では有名なお酒で、テレビCMも耳の残るフレーズでした。

「♪千福いっぱいいかがです」

っていう。今もCMやってるのかなあ。

 

…なんか思いつくままに書いてきてしまって映画の感想を全然書いてない。

そうですね。とにかくいちばんは絵の細部へのこだわりが随所に見られたので、広島や呉にゆかりのある人が見たら「あるある」の連続になりますよね。そして、そうでないひとがみたら、広島や呉で、あのシーンやあの言葉に触れる旅、というのをやってみるのもいいんじゃないでしょうか。そう、呉はええところよ。

あとは言葉にも感心しました。よくある全国ネットの広島のドラマとか映画とかをやると、広島弁や呉弁にどうも変な不自然さというか違和感を感じることがよくあるのですが、この映画の広島弁は声優さんがすごく頑張っていると思います。そんなに違和感がありません。実は広島と呉とはイントネーションや言葉が微妙に違う気がするんですが、そこもすごい違和感がなかった。呉のひとの言葉は、ちゃんと呉の祖父母がしゃべってた言葉にしっかりなっていました。

逆に、そういうことがあって肝心のストーリーがあまり頭に入っていないんですが…それは原作も買ったのでまた読もうと思います。「泣いてしまう」「感動してしまう」という感想が多いみたいですが、いろいろ感じるところのある映画だと思いますが、「感動して号泣してしまう」ような映画ではなかったと思います。隣の女性は終始泣いてましたけど、私はそういうふうにはならなかった。

たぶん、すごく淡々としているというか、その当時に生きていた、暮らしていたひとたちにとっての「日常」を、現代の目のフィルターをなるべく通さずに描こうとしているというのが見えるから、なんだろうと思います。劇中のひとたちが、今から見たらすごく悲劇なんだけど、その当時に生きていたひとたちにとってはそれが現実の日常だったんですよね、という感じだったので。悲しんだり、現実を嘆いたりしている暇なんかない、というか。

たぶん、原作のこうのさんも、戦後生まれで、私と同じくらいの世代の方なんですけど、広島で生まれ育って東京に出て、広島と東京の、戦争や、特に原爆に対する意識のギャップに驚いて、それで知る努力を始めて…っていう方なので、変に後世の世代の自分たちの想像みたいなので脚色せずに描かなくては、礼儀にかなわない、というような意識があるような気がすごいするんです。

もっとも、重要な意味が短いシーンや短い台詞や、台詞のない「間」の中の描写に込められていると思われるのですが、テンポよく次々にシーンが切り替わっていくのと、「観客に説明する気」がない(=観客がどう受け取るかを観客にゆだねてしまう)感じの映画なので、1回見ただけでは空気だけ感じて流してしまった…という部分も多そう。

また、何年何月何日にどんなことがあった、っていう、主に呉空襲のことについては、念入りに取材がしてあって、説明はないけれども絵の描写で、それらの出来事を表現しているので、そこらへんについては多少の歴史や戦史について、ご自分で調べてみるのもありだと思います。これをきっかけに「多くのひとに知ってもらう」というのは、きっと原作者や監督ものぞんでいるところだとおもうんです。

多くの人に是非みてもらいたい映画ですね。私も、祖父母が亡くなってから一度も呉のお墓にいってないんですが…来年のお盆はいってこようと思った。そして、年末年始は、こういう映画があったよーっていうのを、ちょっと弱ってる父にも知らせて、呉の話でもしようかと思いました。


長いねーすまんねー。ここまで読んでくださった方、もしいたらありがとう!


では、また!