2月27日は新選組の日である。
実は今日2月27日は新選組が結成された日なのだ。
正確に新選組の名前が正式についたのは8月18日の政変の後で、2月27日は壬生浪士組が結成された日である。
ただ、一般的に2月27日が新選組結成の日と言われている。
ということで、新選組の記念日の今日は初代局長。
尽忠報国主、芹沢鴨。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
芹沢鴨(せりざわ かも)
本名
下村継次、嗣次、嗣司
生誕
1827年
死没
1863年10月28日もしくは30日
出身
常陸国芹沢村
流派
神道無念流
役職
新選組筆頭局長
性格
豪快で乱暴者。
特にお酒を飲むと手に負えなかったようだ。
と、言われているが実はいい人だったという。
ニックネーム
画像はない。
一応、鴨という名前なので、あえて『家鴨』にしよう。
逸話
芹沢鴨が浪士組に参加するまでの資料は驚くほど少ない。
1827年、常陸国芹沢村で生まれと言われており、水戸郷士の三男だと思われているが、これが本当のことなのかは怪しいところだそうだ。
若い頃は武田耕雲斎の元で、水戸学を学んだみたいで、かなり優秀だったそうだ。
そして水戸天狗党に参加。
本当かどうかは怪しいところみたいだが・・・。
水戸学、水戸天狗党はバリバリの攘夷派である。
そんなわけで、黒船来航時、開国に反対の人たちは次々に捕まって入獄されてしまう。
芹沢先生も入獄。
安政の大獄ってヤツだ。
芹沢先生の死刑は確定していたのだが、「iPhone発売日か!」と言いたくなるぐらい、死刑を待つ行列が起きていたようだ。
そんななか、芹沢先生は死を覚悟し、指を嚙み切って、その血で辞世の句を書いたらしい。
雪霜に色よく花の魁て 散りても後に匂う梅が香
梅は春をまてずに、霜にも負けずにいい色の花を咲かせる。その梅が散っても梅の臭いは残る。という意味らしく、これの梅を芹沢先生に変換すると、芹沢先生は新しい時代を待てずに攘夷の先駆けとして戦ったが、おそらく死ぬだろう。しかし死んでもその活躍は後世に語り継がれるだろう。という意味になるらしい。
そんなこんなで、芹沢先生の死刑が実行される前に、桜田門外の変により、井伊直弼が暗殺されてしまう。
すると、安政の大獄で捕まった人たちは解放。
辞世の句まで書いたのに、芹沢先生は死刑の順番が回ってこなかったもんで、生き残ったのである。
その後、天狗党時代の仲間の新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助とかと一緒に浪士組に参加。
乱暴者の芹沢鴨のイメージがついてしまったのはおそらくここからだ。
京都に行くまでの道中、近藤勇が芹沢先生の部屋割りを忘れてしまったために、芹沢先生の泊まる部屋がなかった時、怒った芹沢先生は大篝火をたくという騒動を起こす。
新選組になってからは、道をどかなかった力士を斬りつけたり、恐喝まがいのことをして「融資しろよ」というがそれを断った大和屋に大砲をぶっ放すという暴挙。
八月十八日の政変では、会津藩士と揉め事を起こすと言う始末。
まあ、壬生浪士組が大砲なんて持っていなかったと思うし、大砲は話盛り過ぎだと思うが・・・。
そんなわけで、芹沢先生の行動に壬生浪士組を預かっている会津藩松平容保は頭を悩ますわけである。
そうゆうわけで、近藤たちに「なんとかしてくれよー」と言ったようで、近藤たちも芹沢先生を謹慎処分にしたりしたようだが、全然態度はなおらなかったようだ。
そんなわけで、松平さんは「あいつ全然反省しないじゃん。しょうがないから芹沢を殺して」と言って、近藤たちは芹沢を暗殺したのである。
しかし、芹沢先生、じつはそこまで悪い人ではなかったようだ。
まず、大篝火の件は司馬遼太郎の創作と言う噂だ。
そもそも、大篝火騒動があったといわれる日は2月9日だと言われてるが、近藤が宿割り係に任命されたのは14日だという。
これだと、つじつまが合わない。
仮にこれが事実だとしても、これは2月の出来事だ。
2月に野宿である。
寒いにきまってる。
焚火ぐらいさせてやれ!
まあ、予想より火がでかくなっちゃったけど・・・。
力士を斬ったという、話だって先に沖田総司が力士に怪我をさせられたから、助けるためだと言う話もある。
その後、壬生で相撲興行とかやるぐらいだ。
力士にも非があったのだろう。
大和屋の件は・・・
うーん・・・
流石にこの件は芹沢先生が悪いけども・・・。
言い訳すると、このお金で、あの有名な隊服(こうゆうやつ)

をそろえたらしく、隊を思っての行動だろう。
会津藩士と揉め事を起こしたのは、壬生浪士組が御所の警護をすることになってたのに、なんにも知らない会津藩士がいちゃもんつけてきたから、怒っただけだ。
ちなみに、このとき会津藩士に槍を向けられたらしく、近藤とかは「会津藩怒らせちゃったよー。ヤバいよー」とか言ってしどろもどろになったそうだが、芹沢先生は微動だにしなかったそうだ。
それどころか、あきれて笑っていたらしい。
芹沢先生は悪い人ではない。
というか、いい人だ。
お世話になってた八木さんの子どもが無くなった時は、葬儀で受付を手伝ったようだ。
松平容保にみんなで会いにいくことになったときに、紋付を八木さんから借りたそうで、八木さんがみんな家紋が一緒で、「申し訳ない」と思っていたら「なかなかいい袴だね」なんて言って笑ってたそうだ。
あとは、八木さんから借りた火鉢を傷つけてしまった時は、「ごめんなさい」と言ったはいいが、恥ずかしくなって頭を書きながら逃げ出してしまったなんてお茶目な話もある。
そんなワケで、芹沢さんはいい人なのだ。
あとは、子どもたちといたずら書きをして、遊んでいたらしい。
あ、これは悪いことだった。
芹沢先生は、お酒が入ると尽忠報国の士とかかれた鉄扇を振り回していたようで、それが悪いイメージになってしまったのかもしれない。
当時、新選組は長州の間者に芹沢先生を殺されたことにしたそうだ。
そんなわけで、新選組の人とか八木さんとかは「なんであんないい人が殺されてしまったんだ」なんて嘆いていたそうだ。
芹沢先生は元々水戸天狗党だ。
水戸天狗党はバリバリの尊王攘夷派で、バリバリの幕府側の会津藩からしたら、そんな芹沢先生が邪魔だったのだろう。
そんなわけで、なんか殺すためのいい理由をつけて、芹沢先生を殺してしまったようだ。
歴史という物は、都合のいいように書き換えられてしまうようだ。
ある意味、辞世の句じゃ無くなった、辞世の句は芹沢さんの辞世の句にぴったりだと、勝手に思うのである。
実は今日2月27日は新選組が結成された日なのだ。
正確に新選組の名前が正式についたのは8月18日の政変の後で、2月27日は壬生浪士組が結成された日である。
ただ、一般的に2月27日が新選組結成の日と言われている。
ということで、新選組の記念日の今日は初代局長。
尽忠報国主、芹沢鴨。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
芹沢鴨(せりざわ かも)
本名
下村継次、嗣次、嗣司
生誕
1827年
死没
1863年10月28日もしくは30日
出身
常陸国芹沢村
流派
神道無念流
役職
新選組筆頭局長
性格
豪快で乱暴者。
特にお酒を飲むと手に負えなかったようだ。
と、言われているが実はいい人だったという。
ニックネーム
画像はない。
一応、鴨という名前なので、あえて『家鴨』にしよう。
逸話
芹沢鴨が浪士組に参加するまでの資料は驚くほど少ない。
1827年、常陸国芹沢村で生まれと言われており、水戸郷士の三男だと思われているが、これが本当のことなのかは怪しいところだそうだ。
若い頃は武田耕雲斎の元で、水戸学を学んだみたいで、かなり優秀だったそうだ。
そして水戸天狗党に参加。
本当かどうかは怪しいところみたいだが・・・。
水戸学、水戸天狗党はバリバリの攘夷派である。
そんなわけで、黒船来航時、開国に反対の人たちは次々に捕まって入獄されてしまう。
芹沢先生も入獄。
安政の大獄ってヤツだ。
芹沢先生の死刑は確定していたのだが、「iPhone発売日か!」と言いたくなるぐらい、死刑を待つ行列が起きていたようだ。
そんななか、芹沢先生は死を覚悟し、指を嚙み切って、その血で辞世の句を書いたらしい。
雪霜に色よく花の魁て 散りても後に匂う梅が香
梅は春をまてずに、霜にも負けずにいい色の花を咲かせる。その梅が散っても梅の臭いは残る。という意味らしく、これの梅を芹沢先生に変換すると、芹沢先生は新しい時代を待てずに攘夷の先駆けとして戦ったが、おそらく死ぬだろう。しかし死んでもその活躍は後世に語り継がれるだろう。という意味になるらしい。
そんなこんなで、芹沢先生の死刑が実行される前に、桜田門外の変により、井伊直弼が暗殺されてしまう。
すると、安政の大獄で捕まった人たちは解放。
辞世の句まで書いたのに、芹沢先生は死刑の順番が回ってこなかったもんで、生き残ったのである。
その後、天狗党時代の仲間の新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助とかと一緒に浪士組に参加。
乱暴者の芹沢鴨のイメージがついてしまったのはおそらくここからだ。
京都に行くまでの道中、近藤勇が芹沢先生の部屋割りを忘れてしまったために、芹沢先生の泊まる部屋がなかった時、怒った芹沢先生は大篝火をたくという騒動を起こす。
新選組になってからは、道をどかなかった力士を斬りつけたり、恐喝まがいのことをして「融資しろよ」というがそれを断った大和屋に大砲をぶっ放すという暴挙。
八月十八日の政変では、会津藩士と揉め事を起こすと言う始末。
まあ、壬生浪士組が大砲なんて持っていなかったと思うし、大砲は話盛り過ぎだと思うが・・・。
そんなわけで、芹沢先生の行動に壬生浪士組を預かっている会津藩松平容保は頭を悩ますわけである。
そうゆうわけで、近藤たちに「なんとかしてくれよー」と言ったようで、近藤たちも芹沢先生を謹慎処分にしたりしたようだが、全然態度はなおらなかったようだ。
そんなわけで、松平さんは「あいつ全然反省しないじゃん。しょうがないから芹沢を殺して」と言って、近藤たちは芹沢を暗殺したのである。
しかし、芹沢先生、じつはそこまで悪い人ではなかったようだ。
まず、大篝火の件は司馬遼太郎の創作と言う噂だ。
そもそも、大篝火騒動があったといわれる日は2月9日だと言われてるが、近藤が宿割り係に任命されたのは14日だという。
これだと、つじつまが合わない。
仮にこれが事実だとしても、これは2月の出来事だ。
2月に野宿である。
寒いにきまってる。
焚火ぐらいさせてやれ!
まあ、予想より火がでかくなっちゃったけど・・・。
力士を斬ったという、話だって先に沖田総司が力士に怪我をさせられたから、助けるためだと言う話もある。
その後、壬生で相撲興行とかやるぐらいだ。
力士にも非があったのだろう。
大和屋の件は・・・
うーん・・・
流石にこの件は芹沢先生が悪いけども・・・。
言い訳すると、このお金で、あの有名な隊服(こうゆうやつ)

をそろえたらしく、隊を思っての行動だろう。
会津藩士と揉め事を起こしたのは、壬生浪士組が御所の警護をすることになってたのに、なんにも知らない会津藩士がいちゃもんつけてきたから、怒っただけだ。
ちなみに、このとき会津藩士に槍を向けられたらしく、近藤とかは「会津藩怒らせちゃったよー。ヤバいよー」とか言ってしどろもどろになったそうだが、芹沢先生は微動だにしなかったそうだ。
それどころか、あきれて笑っていたらしい。
芹沢先生は悪い人ではない。
というか、いい人だ。
お世話になってた八木さんの子どもが無くなった時は、葬儀で受付を手伝ったようだ。
松平容保にみんなで会いにいくことになったときに、紋付を八木さんから借りたそうで、八木さんがみんな家紋が一緒で、「申し訳ない」と思っていたら「なかなかいい袴だね」なんて言って笑ってたそうだ。
あとは、八木さんから借りた火鉢を傷つけてしまった時は、「ごめんなさい」と言ったはいいが、恥ずかしくなって頭を書きながら逃げ出してしまったなんてお茶目な話もある。
そんなワケで、芹沢さんはいい人なのだ。
あとは、子どもたちといたずら書きをして、遊んでいたらしい。
あ、これは悪いことだった。
芹沢先生は、お酒が入ると尽忠報国の士とかかれた鉄扇を振り回していたようで、それが悪いイメージになってしまったのかもしれない。
当時、新選組は長州の間者に芹沢先生を殺されたことにしたそうだ。
そんなわけで、新選組の人とか八木さんとかは「なんであんないい人が殺されてしまったんだ」なんて嘆いていたそうだ。
芹沢先生は元々水戸天狗党だ。
水戸天狗党はバリバリの尊王攘夷派で、バリバリの幕府側の会津藩からしたら、そんな芹沢先生が邪魔だったのだろう。
そんなわけで、なんか殺すためのいい理由をつけて、芹沢先生を殺してしまったようだ。
歴史という物は、都合のいいように書き換えられてしまうようだ。
ある意味、辞世の句じゃ無くなった、辞世の句は芹沢さんの辞世の句にぴったりだと、勝手に思うのである。
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