「おもやい」

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遺品を整理中に発見した母の自分史

2012-11-16 10:26:49 | 日記
いくちゃんの七五三とお雛様①

一度所帯じまいをして、新しい第一歩から出発した親子三人の生活は、最低からの歩みだった。

里子生活から連れ戻されたいくちゃんは、下谷区永住町の路地裏の三畳一間の間借り生活だった。

それでも母親がいつも傍にいるので、いくちゃんは幸せだった。

父親は一日働いて帰ってきて、夕餉は親子三人が楽しくお膳を囲む毎日だった。

その後、浅草区寿町二十四番地へ移転してから、いくちゃんの父親は本格的に家で仕事を始めたのである。

職業はいわゆる家内工業、つまり町工場だった。

今度の家も仕事場の他は、六畳一間の手狭な家だったが、隣家が大工さんだったので、壁に窓をあけたり、押入れを下だけ畳敷きにして弟子を寝かせたりして、住みよくするために改造して四、五人の従業員と共に、次々にくる注文をこなしていった。


その頃いくちゃんにも七五三がやってきた。

七歳のお祝いにと母親が整えてくれたのは、一反の木綿の反物から作った元祿袖の着物と羽織だったが、新しいその着物を着て、別珍の新しい色足袋と、新しい下駄を履いて、早めに済ませた朝食のあと、氏神様である三社様へお詣りに出かけた。

ところが既に社頭には、きらびやかに装った親子たちが二組、三組とお詣りに訪れていたのである。
実は母親はそんな様子をいくちゃんに見せたくないので、早めに家を出てきたのだが何にもならなくなってしまった。

遠くから眺めていたいくちゃんが聞いた。

「どうしてあの子達はいい着物を着て、筥迫(ハコセコ)をしているの」と聞いた私に母親は「あの人達はお稚児さんなのよ」と、危うくかわして、わが子を急き立てて家路についたのだった。


それから三、四年経った三社様のお祭礼の当日、一揃えの美々しい衣装がいくちゃんの前に並べられた。

新しい畳紙(タトウ)の中から、目も覚めるような山繭縮緬の着物、片方からは襦珍の帯が金糸の織模様もまばゆく取り出された。

その頃の子供達の憧れの、例の錦織の筥迫も、塗りの小扇子も、並べられていた。
鹿の子絞りの帯上げ、金糸の刺繍の丸ぐけの帯締め、白足袋、ぽっくり。

早速、いくちゃんにそれらの衣装は着せられた。

赤い錦紗の下着から、二枚重ねの羽二重のだんだら模様、上着は鶴の舞っている長い袂も夢心地のうちに、すっかり支度が出来上がった。

ふところにははさみ込まれた筥迫のピラピラした金具の房、姿見の中には、あの七五三の時とはまるで違ったいくちゃんが立っていたのだった。

その時の写真は今もアルバムに大切に納めてあるが、木綿の元祿袖の七五三のいくちゃんのために、後年のいくちゃんの俳句を一句書き添えておく。

木綿着てよそのよき子の七五三


このようにしてか細いいくちゃんも、両親の庇護のもとに幸せな月日を送っていったが、たった一度だけ、深い悲しみを味わったことがあった。

それはいくちゃんが最も大切にしていたお雛様のことだった。   (つづく)

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