ピエール・カルダン氏が死去 ファッションデザイナー98歳 訃報 JOELLE DIDERICH
ファッションデザイナーのピエール・カルダン(Pierre Cardin)氏が12月29日、死去した。98歳だった。彼のスポークスパーソンであるジャン・パスカル・ヘッセ(Jean-Pascal Hesse)によると同日早朝に老衰で亡くなったという。カルダン氏が最後に公の場に姿を見せたのは、9月21日にパリで行われた「ピエール・カルダン」の創業70周年記念イベントだった。
カルダン氏は1922年イタリア生まれ。2歳でフランスに移住し、39年からヴィシーの仕立て屋で職業指導を受ける。45年にパリに移り、マダム・パカンやエルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)のアトリエを経て、47年に★クリスチャン・ディオール(Christian Dior)のアトリエの責任者になる。“ニュールック”としても知られる「ディオール(DIOR)」のアイコニックな “バー”ジャケットの制作にも携わった。その後、50年に自身のアトリエを構えて独立。演劇や映画の衣装を手掛け、53年に初のオートクチュール・コレクションを発表し、高い評価を得た。59年にはフランスオートクチュール協会のメンバーとして初めて、ウィメンズのプレタポルテ・コレクションを発表し、モードの民主化を実現。★ライセンスビジネスにも積極的に取り組み、大きな成功を収めた。
◆https://www.asahi.com/and_w/20200922/2124259/
「ファッションの革命児」ピエール・カルダン、70年の軌跡。映画「ライフ・イズ・カラフル!」Share
「ファッションの革命児」と呼ばれ、今も現役で活動しているピエール・カルダン(98)。その仕事と波瀾(はらん)万丈の人生を追ったドキュメンタリー映画「ライフ・イズ・カラフル!」が10月から公開される。ブランド設立70年。先駆的だった数々の功績と共に、その持論である装う楽しさも伝えている。
★五つの功績紹介、日本との関係も

ピエール・カルダン。1922年イタリア生まれ (C)House of Cardin – The Ebersole Hughes Company
映画はカルダンの偉業とされる五つの事柄を、本人や関係者のインタビュー、当時の映像などで紹介する。ジャンポール・ゴルチエや森英恵、高田賢三ら著名デザイナーらも登場する。
第一の功績は「モードの民主化」。カルダンは1950年に独立して、オートクチュール作品で注目される。その後、59年にパリ・オートクチュール組合会員として初めてプレタポルテに参入。それまで富裕層のためのものだったパリモードを、身体を締め付けないAラインのミニドレスや宇宙ルックなど斬新なデザインと求めやすい価格で、一般大衆にも開放した。
二つ目は、世界初と言われる★メンズコレクションの発表。クラシックなスーツ一辺倒だったメンズ市場に、モダンなデザインを取り入れた。初期のビートルズの有名な衣装、ノーカラージャケットのスーツもカルダン作だった。
三つ目は国籍や肌の色に関係のない多様性のあるモデルの起用。白人中心の時代に、黒人や松本弘子ら日本人も。四つ目はタオルから飛行機まで約800品目のライセンス生産。五つ目は、共産圏の中国やソ連でもカラフルで楽しいファッションを見せるショーを敢行したことだった。
映画で紹介されたカルダンの作品 (C)House of Cardin – The Ebersole Hughes Company
カルダンは2歳の時、ファシズム台頭下のイタリアからフランスに移住した。映画では、不遇な幼少期や、俳優ジャンヌ・モローとの恋など私生活も明らかにされる。ネクタイをしていなかったために門前払いされたパリの老舗レストラン、マキシム・ド・パリを20年後に買収するいきさつも興味深い。
カルダンフリークの2人の日本人も登場するなど、日本でのロケや出来事も多数紹介される。日本では59年に★高島屋が婦人服のライセンス契約を結んだことから人気が広がった。高島屋史料館の田中喜一郎部長は、「まだ着物や洋裁の仕立て服が中心だった日本でおしゃれな★既製服を広め、ファッションの★地位を押し上げた。日本の高度成長期ともマッチしたのでは」
映画は10月2日から新宿武蔵野館ほかで全国公開。
才能の幅広さに脱帽です ――出演し証言、桂由美
映画でカルダンの業績を証言しているデザイナーの桂由美に改めて思い出などを聞いた。
カルダンと★桂由美(左)。1960年代前半、パリで
――映画を通して伝えたかったことは。
――カルダン本人もこの映画を見たのですよね。
(編集委員・高橋牧子)
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