彼は「世俗的な下卑た子どもの読み物を排除して、子どもの純性を保全開発する」という理想を掲げ、損得抜きでその思いを形にするために半生をかけて奮闘した。
最近、そんな雑誌「赤い鳥」の復刻版を手にする機会があり、はまってしまった。復刻版は、当時と同じように再現するため、印刷方法や紙質までこだわって製本されている。これは当時のデータがすべて残っていたからできたことだろう。「赤い鳥」をよみがえらせようとした人たちの熱い思いも感じられる。
雑誌「赤い鳥」は、大正デモクラシーの気運と印刷技術の発達、教育向上による識字率の高まりの中、1918(大正7)年に生まれた。ちなみに夏目漱石の門下生だった鈴木三重吉が私財を投じて作った「赤い鳥」の雑誌社は、ベンチャービジネスのはしりともいえるだろう。
創刊当初は、有名な作家の賛同を得て、芸術性の高い新しい雑誌を子どもたちのために送り出そうと試みていた。かかわった作家は、芥川龍之介や有島武郎、泉鏡花、野上弥生子、菊池寛、谷崎潤一郎、小川未明、北原白秋などなど、そうそうたるメンバーだった。
「赤い鳥」の中から生まれた作品の代表作といえば、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「杜子春」や新美南吉の「ごんぎつね」、有島武郎の「一房の葡萄」などが有名である。
実をいうと私は学生時代、「赤い鳥」が好きではなかった。子どもに対する理想ばかりが高く、高尚すぎるのではないか、という先入観が強かったからだ。
実際のところ、「赤い鳥」世代の祖母に話を聞いても、子どものころ楽しんで読んでいた雑誌といえば、三重吉が俗っぽいと非難していた人気雑誌「少年倶楽部」(講談社)だったという。調べてみると雑誌「赤い鳥」は、当時のほかの雑誌に比べると発行部数も読者数も少なかったそうだ。
また「赤い鳥」は、採算度外視の経営だったので、常に火の車状態だった。最初のころは、鳴り物入りの作家の作品が多く掲載されて注目されていたものの、後半は三重吉が作品を何本も書き、子どもたちによる「綴り方」(生活の中で体験したことを作文にしたもの)や「自由詩」などの読者投稿へ重点を置いていった。
1929(昭和4)年には、関東大震災から続く昭和恐慌をうけてついに休刊となる。しかし、2年後の1932(昭和6)年には復活、そして、三重吉の亡くなる1936(昭和11)年まで、トータルすると16年間の間に196冊を発行した。ただし、最後まで雑誌経営は厳しかったようだ。
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雑誌「赤い鳥」の復刻版を手にすると、当時の人たちの息遣いまでもが感じられてくる。私をとりこにした魅力はそこにあった。
雑誌「赤い鳥」の中から抜粋され書籍になった作品も多くあるが、そんな作品でも、雑誌形態の中で読むのと独立した書籍の形で読むのとでは印象がまったく違った。点ではなく集合体としてみることで初めて気づいた面白さ、そして深さを知った。これは時代を反映する総合的なメディアならではなのだろう。
雑誌「赤い鳥」は、作品のみならず「編集後記」での三重吉のコメントや読者からのお便り、童話の挿絵やレイアウト、デザイン、広告なども興味深い。三重吉が力を入れていた「綴り方」では、子どもたちが書いた作文により、当時の子どもたちの生活の様子から当時の子どもの文章力なども知ることができる。
雑誌「赤い鳥」は、今や貴重な文化遺産だ。
鈴木三重吉がなしえた雑誌「赤い鳥」というムーブメントの評価は、時代とともに変遷し、今もなお新たに読み解こうとされ続けている。思えば、歴史的評価とは、その時代の価値観により左右され「形」として残れば永続的に評価され続けるものなのだ。90年たった今でも「赤い鳥」の時代的意味は断言されていない。
なお「赤い鳥」復刻版は、大きな図書館や専門図書館である大阪府立国際図書館や国際子ども図書館 などで見ることができる。チャンスがあったら、ぜひ、手にして欲しい。
■関連リンク
大阪府立国際図書館
国際子ども図書館
2009-04-02 Life 消え行くものへむけて