気の毒なことに弟叔父は、私を自転車に乗せて真っ暗な夜道を30分以上掛けて、兄叔父の家に届けてくれました。 以来6年生の夏まで、毎年兄叔父の家に泊まりに行っていました。 叔母と畑仕事をするとき以外は、ほとんど毎日のように近くの300m程度の山に上がって、波打つ稲穂を飽きずに眺めていました。 時々兄叔父が勤めている駅傍の農協に遊びに行って、倉庫に積み上げられた早出米の米俵だろうか、職員の人達が米粒を出す刺し棒で点検したりしているの見学したり、厭きることはありませんでした。 最後の年となった6年生の時には、弟も一緒に泊めてもらうことになりましたが、1年生の弟は初日の夜、私と同様に泣き出しました。 なんと情けない兄弟だったろう。 叔父の家には3姉妹がいて、中、下の姉妹は高校生で、中のヒロコが叔母に似て美人で、お盆の迎え火の時墓まで夜道を手をつないで連れて行ってくれたのが嬉しかった。 やはりませていたのかなあ。 叔母達に嫌われまいと、毎日それこそ3食出される大嫌いなナスの味噌汁や漬け物を、戻しそうになるのを我慢しながら食べているうちに、すっかり大好きになってしまいました。 我が儘な私に対するこの面での教育策は、父や叔父の目論見がまんまと成功したようでした。 厳しい父母と優しい叔父家族、私はこの2家族によって育てられたと思っています。 大好きだった叔母は3年ほど前、私の母の後を追うようにして、母の死後ほぼ1ヶ月して亡くなった。母は点滴生活になって2ヶ月ほどでガンが主原因で逝ったが、叔母は1年半もの間点滴をして生き続けた。 ほとんど植物人間状態であっても、やさしい家族達がしょっちゅう叔母を見舞っていたが、私には尊厳死もあるのではと考えさせられた。 でも本当に優しい家族には、そんな選択肢はなかったのだろう。 今頃億万浄土を目指しながら二人して私の悪口を言っていることだろう。
父の兄である叔父夫妻の家で小学校3年生の夏から、毎年一週間程度過ごさせてもらうこととなった。 筑波山麓の、当時は鉄道駅のすぐそばの元旅館を買い取った家がそこで、入口部分が土間で広く、掘り炬燵のある12畳の間に上がると、次の間は鍵方に南と東面に障子があって、その向こうは縁側になっていた。 夜は雨戸を引くのだが、皆が寝静まるとその廊下では虫達がパタンパラパラとダンスパーティを始めるのだ。 都会っ子で臆病な私には、最初はそれが妖怪達の足音のように聞こえ、なかなか寝付けず蚊帳の中で叔父叔母の間で叔母にしがみつきながら寝ていました。 叔母は、母と違って本当に優しく、しかし日中私を連れて畑に行くと本当に力持ちで、ある時ナス畑で私がギャーと大声を上げて飛び上がると、そばに来て黒光りした大きなムカデを小枝で手ぬぐいに包んで、これは薬になるんだよとニコニコしている。 ゴキブリにもおたおたする母とは雲泥の差だ。 でも慣れた3日目ぐらいに、弟の叔父の家に行こうと誘われたのは、今ならその弟叔父の気遣いの理由がわかるが、当時は兄叔父夫妻に嫌われたのかと寂しくなった。 弟叔父の家に行くと、私より年下の姉妹が縁側を早足で行ったり来たりしている。 夕食を終えて、テレビもない時代なので、竹藪越しの月を観ているとフクロウが鳴き出して、聞いていたら私も天涯孤独の子供にも思えてきて、大声で鳴き出し兄叔父の家に帰ると大騒ぎした。
小学校の同級生の集まりの相談が地元にいる私にあると、N君にまずは相談するように勧める。 彼とは小学校の1年から中学卒業まで9年間一緒の学校に通ったが、彼ほど明るく常に努力を怠らない人間も少ないと思っている。 彼の兄貴は私らの4年生の頃には日比谷高校に通っていて、確か当時すでにお父上は亡くなられていたかして、働いている母親の代わりに傘などを兄貴が届けに来ると、先生方がその兄貴を褒め称える。 長屋仕立ての小さな家で、妹さんも含め母子4人が経済的にも相当大変だったと思うが、背の低い小柄なN君は運動会に彼の真骨頂を見せる。 一生懸命駈けても、いつも一番後ろの人よりも3馬身ぐらい離されている。 でもその一生懸命走っている姿は、私の母も含め大勢のファンを作った。 私の母はN君の母上の人柄にも惚れ込んでいました。 私が彼を尊敬するのは、彼の兄貴がその後東大に入り、益々その兄貴を教師達が褒めあげれば、彼との比較になってしまうが、彼はおくびにもそんな風情を見せなかった。 貧しくとも母と子供達が一体となって生きている充実感、想像するに丸い小さなテーブルの上に小さな裸電球、そして家族の明るい会話、そんな当時の幸せを我々は今持つことは不可能になったのだろうか。 彼は今、小学校の校長先生をしている。
T君が、我が小学校に転校してきたのは3年生の時でした。 すぐにO君と3人ですっかり仲良しとなり、T君の家にも遊びに行くようになって驚きました。 彼の家は50坪程度の敷地に、南面に小さいながらも池と小橋があり、背面には築山もありました。 まだまだ生活そのものに追われている家庭が多かった我が周辺にあって、家にはすでにテレビもあって、お母さんはお琴の先生、我が家とは隔世の感がありました。 当時の木たる式の風呂に入れてもらって、3人して腹を出っ張らせ、どのチンチンが一番でかいかなどと比べっこをしたり、結構ませていたようです。 お菓子をご馳走になりながら、よくわからない歌舞伎をテレビのダイヤル権を持たない子供達が真剣な顔をして観ていました。 夏には怪談ものを観るのが、大変面白かったのを覚えています。 彼の家では5年生の時に家庭教師が来るようになって、私も時々教えてもらいましたが、それぞれの家庭の経済事情でこれほども豊かさに違いがあるのかと、つくづく感じました。 T君の家族は、恐らく彼が開成中学の受験に失敗して、中学生になるとお母さんが我らのようにあまり勉強しない連中との付き合いを切ろうとされたのか、東京の西地区に移っていかれた。 私はこれをT君の孟母三遷と言っていました。
私が比較的他の人に対して偏見を抱かないでいられるのは、父の影響によるものと思います。 小学校に上がる前、近所の子供からどこどこの家は向こうの人で、犬を殺して食っていると聞かされ、肉など食べたこともない当時で、うまいのかなとその話を両親にすると、まさに烈火のごとく、人の噂をそのまま信じるお前はそれほどバカかと怒鳴られ、以来自然と極力うわさ話には乗らないようになりました。 小学校3年生の頃に父は、わりあい近くにお住まいの在韓のIさんと親しくなり、やがて父はその方を兄のように慕うようになって、仕事面でも趣味の釣りでもおつき合いし、親交を深めていきました。 私が二十歳になる直前に父は突然他界しましたが、Iさんは変わらず私を親父のように面倒見てくれ、私自身も大変尊敬しています。 戦前日本に来て警察に捕まったり、戦後多感な子供達が不本意な差別に苦しんだりしたことも全て飲み込んで、いつも目を細めて笑ってらっしゃったまさに大陸人です。 残念ながら現在は体調を崩され、近くの療養病院に入っていますが、このすばらしいご家族達に、ご多幸あれと常に祈っています。