急に気温も下がった昨日曜日は、久し振りに滋養の雨となった。 10過ぎにゴルフ練習場に出掛け貧乏人根性の私は一打を安くする為に、11時半まで大半の球をドライバーショットで、「こなくそ!」とフルスイングを続けた。 本チャンと違って練習場では、腰を120%の高速で廻そうとするから、トップはするはテンプラはするはと忙しい。 それでも偶に「よし、女子プロ並みに250ヤードは越えたかな」と、会心のショットが出た時にはメタボ腹を気にして、福嶋晃子並なミニスカートが履きたくなってくる。 大箱根CCで女子プロ最終日が行われる日なので、4時からは妻と二人してテレビにかじり付いた。 スイッチを付けると、昨日までトップを走っていた有村智恵が森田理香子とデッドヒートを繰り広げている。 数日前に私らもプレイしてきたゴルフ場だから、ラフに打ち込んだ時のショットの厳しさなどは手に取る様に分かる。 16番ホールの打ち下ろしでは、今回不振だった福嶋選手もしっかりと崖下のフェアウェイの先端にボールを運んでいる。 私も当日は金時山を眼の前にして、「我が会心のショットを、金太郎もご覧じろ」と練習場同様にフルショットした。 すると結果はトップ気味の低い弾道で、女子プロ達が絶対に打ち込まない左の木立の根元方向に飛んでいった。 金時山の頂上では金太郎と熊が私を指さして、笑っていたのを思い出す。 一打リードしていた森田は右のラフに落としてしまい、有村は福嶋程飛ばなかったがフェアーウェイをキープして、ここでまた逆転する。 私は木の根元からサブグリーン方向に打ってダボとすると、金太郎は大きなまさかりを振って、やんやの喝采をしていたっけ。 森田はここで有村に逆転される。 私は17番のショートでは、会心のショットをした筈なのにグリーンからこぼれて、不得意な寄せは7m以上のパットを残したが、何とかパーを取ることが出来た。 森田も同様に何とかパーだった。 こうなると森田を応援したくなるのは当然だろう。 しかも森田は21歳の若さである。 「頑張れ森田!」と応援していると、最終ホールで森田は左のラフに掴まる。 これは私も同様だった。 しかし森田の二打目はさすがプロだ。 比べて私はラフからのショットをトップした。 有村は悠々バーディで優勝する。 森田は追いつけずに、最終ホールはパーだ。 そして私はと言うと、三打目をサブグリーン方向に打ってしまい、キャデイが手渡したサンドを見て妻のものだと気が付いた。 私は考えたね。 取り替えてもアプローチが寄らなければ、すぐ上の食堂から見ている観客達からも馬鹿にされるかも知れないからだ。 だからそのまま打ったら、少しオーバーしてグリーンエッジに止まった。 8m近いロングパットをねじ込んだ私は、感極まってグリーン上で泣いたね。 すると森田も涙を流しているではないか。 よし、これからは森田理香子の追っ掛けをしよう。
一昨日は区内M小学校屋上で行う予定だった出張星空観察会が雨天の為に取り止めとなり、そして昨日は葛飾区展望館での担当日になっていたが、生憎の曇天日となってしまった。 それでも思いの外15人程のひと達が訪れてくれたので、先輩格のIさんがドーム内の設備を説明したり、子供達にコントローラーを渡して展望扉を開閉させたり、ドームを回転させたりと、星が見えない分サービスに余念がない。 入社年度3年目のこの爺さんは、ドームと星の講義をするMさんが待っている部屋とを行き来して、下っ端もそれなりに忙しい。 Iさんが展望室の説明を終えると、爺さんは全員を下の階に引率していった。 するとドーム内では暗くて分からなかったが、明るい講義室に移るとアベックの彼女がかなり美人であることが分かった。 私はボランティアである。 ボランティアとは、健全なる身体に健全なる精神が宿ると、古今東西定められている。 しかるに私は、スケベ爺をも自認している。 この狭間で悶々としながら、Mさんがプロジェクターに映し出す「変光星」の説明と、どうしてもちらりほらりと彼女の表情に目が行ってしまう。 今回のMさんの変光星の講義は、子供達にはちょっと難しいと私は判断した。 それでも5年生位の子供を連れた父親は、二人して一生懸命ノートに筆記しているのは、夏休みの自由テーマにする予定なのだろう。 15分近く講義が進むと、あらあら、美人さんが大あくびしだした。 そうだよな、急に変光星の話しなど聞かされても、直ぐに飽きちゃうよなと、私が大口を開けている彼女を凝視していると、あらあら、双方の目が合っちゃって、この爺さんのスケベがばれたかも知れない。 だからMさんに向かって、「それ以上の変光星の話しは難し過ぎるから、変更せい」と叫びたかったが、なんせ歳はこちらが上だが、ボランティア入社年度は幕下と横綱程度の差があるので、礼儀正しい爺さんは命じることが出来なかった。 終わった後で飲み会にも参加して11時半過ぎに蒲団に入ると、この爺さんは茶巾さんに変身しだす。 まずドームの中で子供が展望扉を開ける時に、この茶巾さんが15人のひと達に向かって、「全員で『開けごま!』と言いましょう」と言えば良かったのだ。 すると美人の彼女は講義室でつまらなそうにしている彼氏を振って、私の処に大口を開けたまま「詰まらないので、他のお話しが聞きたいです」と、目を合わせた後近寄ってきたかも知れない。 そうなれば茶巾さんは、この日の為に無理矢理インプットしておいた宇宙最初の成り立ちを、「貴女だけに特別講義しましょう」と、個人的なアポを取ることも出来たのではないかと、蒲団の中で反省しだす。 何々? ボランティアとは清廉潔白なのではないかですって。 聖職であるべき教師達でも良からぬ処を徘徊する今日、この茶巾さんの「ちょっとだけよ」も大目に見られて当然であろう、駄目かな?
昨日はちょうど正午にJR船橋駅を通り掛かったので、高架下のT天丼屋に入った。 馬鹿だね、この茶巾さんは、メタボ腹を何とか減量しようとしているのに、オールスター丼を頼んだ上にサービス券を持っているからと、舞茸を更に載せて貰ってダブル舞茸としているのだから、先人曰く「馬鹿は死ななきゃ治らない」との名言は正しいと言えよう。 そんな自戒の気持ちで店内を見回してみると、居た居た、私以上の馬鹿が。 私の側に座った30歳そこそこのビヤ樽ポルカの彼は、蕎麦の付いた天丼セットをオーダーした上で、天麩羅セットと蛸酢をカウンター席に並べている。 そして天丼の上の天麩羅を平らげると、今度は天麩羅セットの皿から次々と丼に移して、口を風船のように膨らませて、蛸酢も含め私以上の速度で食べている。 この瞬間に、この茶巾さんにまた別の名言が甦った。 終戦から10年程度経った後でも、太った子供は稀にしか居なかったが、それでも居たことは事実だ。 私は、「戦争などで不治の病などを得たひとや、生活で困っているひとをからかったりしたら、この父が許さないぞ」と厳しく鍛えられていた。 だから当時痩せていた友達を、からかった覚えはない。 しかし稀に太った憎らしい奴に出くわすと、「やーい、やーい、百貫デブ、お前の母さん、出臍」と、当時地元の子供達の間で流行った「名言」を、私も一緒になって声を上げたことを思い出した。 痩せた子供はその原因が彼らに無いことは、子供心にも分かっていた。 しかし商店主や豪農の息子で生意気な奴は、不治の病ではないのだからからかわれても良いのだと、幼い茶巾さんは我が論理を組み立てていた。 その甦った「名言」を、側のカウンター席に座っているデブを指さしながら、「やーい、やーい」とやりたい衝撃に駆られた。 しかし店内では全員が黙々と、丼の中に顔を突っ込んで食べている。 店の外の椅子に腰掛けている待ち人には、感心なことにデブおばさんが「申し訳ありませんね、少しお待ち下さいね」と、頭を下げながら冷たいお茶を手渡ししている。 「百貫デブ」と言ってやりたい彼は、私の2倍程の食糧を私と同じ時間内で食べ切ってしまった。 もし彼から、「ミニデブ爺に、百貫デブとは言われたくないな」と反論されたら、返す言葉がない。 更には集客に一生懸命努力しているデブおばさんから、「大事なお得意に、何てこと言うのですか」と、土俵から押し出されても困るなと考えると、結局何も言えずに店の外に出てしまった。 するとケーキ屋さんの前で40歳代のおばさんが、ショーウインドウの中を腰を屈めて見ていたので、小声で「やーい、やーい」とやったら、ものすごい形相で私を睨み付けてきた。 だからお陰で昨晩は、その顔を思い出して一睡も出来なかったのだ。
昨日はちょっとだけ、この爺さんが良い思いを味わった。 仕事に向かう前に、秋葉原のクリニックに出掛けて、「橋本氏病」の3ヶ月定期検診を受けた。 信頼するI先生が連休中のメタボ腹が禍したのか、「血圧が若干高めだから、一応採血をしておきましょう」と仰ったので、採血室に向かった。 20歳過ぎの看護婦さんが、「アルコールは大丈夫ですか?」などと聞きながら、マニュアル通りに爺さんの目などに異変が起きていないか確認していたのだろう。 彼女が突然、「ずいぶんと透き通った茶色い目ですね」「外国の方の血が混じっているのですか?」と尋ねてきた。 私が笑いながら、「いや純然たる日本人です」「でも幼い頃から、よく目の色のことを言われてきました」と話すと、更に私に顔を近づけて「それにしても魅力的な目ですね」と言うではないか。 私もこの歳ともなるとすかさず、「いや貴女の茶髪も美人顔とよくマッチしていますよ」と返すと、彼女は益々ウットリ顔になるではないか。 この瞬間にこの茶巾さんの脳裏に、あれは何の小説で読んだのか、確か「鬼のフンドシを洗う女」のストーリーが過ぎった。 まだ若かりし頃の茶巾さんは、女性の本性が見抜けなかった。 しかし鬼フンの物語で知ったことは、鬼にさらわれた妻を探し求めて男が、とある山裾に辿り着くと、妻が川辺でフンドシを洗っているのに出くわすのだ。 鬼も居ない場所なのに妻は逃げようともせず、いやむしろ楽しそうにフンドシを鼻歌混じりに洗濯している。 男は驚いて近寄り、「おい、これ程私が捜していたと言うのに、お前は鬼との生活に満足しているのか」と詰る物語だ。 結局男は一人で帰ることになる結末を読んだ若かりし頃の茶巾さんは、「女性とは環境に順応しやすく、古今の歴史でも『お茶々』ではないが、宿敵とでも一緒になれるのだ」とインプットした当時を、瞬時に思い出した。 私はこの美人看護婦さんの敵でもなければ鬼でもない。 だから一言、「今晩お茶しませんか」と言うことも出来たのだ。 私と彼女との隔たりは「歳」以外何もないだろう。 病院を出て仕事に向かう電車に乗り込んで、「お前は何故彼女にそう告げなかったのだ」と自問して、「そうか、まだペシミストが残っていたのだ」と気が付いた。 しかしそのささやかな体験が、昨日の仕事に現れた。 連休明けで次々と依頼される仕事をテキパキとこなして、相手のひと達から「この猛暑の最中、よく頑張りますね」と驚かれたのだ。 若気に帰って老尻をひたすら鞭打っていたからか、帰りの電車では腰掛けると尻の当たりがヒーヒーする。 そして悟った。 仕事に嫌気が刺してきたら、I先生の処に駆け付けて「橋本氏病の採血」をお願いしたら良いのだと。 しかしもしその時に、婆さん看護婦が出て来たらどうしよう。
「三つ子の魂」とはよく言ったもので、農家出身の父から、「食べ物は残してはいけない」と、きつく言われて育った私は、食事付きの宿泊を続けると最近では常にメタボ腹になってしまう。 それが今回は4連泊だったので、これを恐れて素泊まり宿とした。 だからクレバーな茶巾さんは、一日目の夕食場所は事前に調べておいた「釜飯の店」を予約しておいた。 妻は「五目飯」を、そして私は一番人気とインターネットで書かれていた「豚の角煮飯」をオーダーした。 釜飯は出来上がるのに時間が掛かるからと、鰺の酢漬けやモズクなどすぐにも運ばれるものもオーダーした。 6時に入店したのだが、後から大勢の客が予約なしで訪れて断られているのを見ていると、さすが茶巾さんの判断は正しいと自賛する。 しかし前菜達は美味いけれど、予想以上に量が多かった。 モズクなどは通常の2倍以上だ。 だから値段にも満足して、次の朝は精肉店で買っておいたメンチとコロッケ、そしてカレーパン、更にコンビニで買った果物等を口に運んだ。 そして朝7時40分には、大箱根CCでの昨年の覇者福嶋晃子の様な体型で、ドライバーショットを見せたのだ。 ここのコースは隣接するホテルのベランダから、大勢のギャラリーが観戦している上に、今週開催される大会に備えてボードや観客席も出来ていたので、この茶巾さんも思わずプロの気分になってくる。 そのゴルフの結果はと問えば、ギャラリーが見ていたドライバーショットはミニ福嶋だったことと、最終ホールパー5は3打目をサブグリーン後ろのボード近くまで引っ掛けたのに、ロングパットをねじ込んでパーとしたことだけを報告しよう。 あとは福嶋選手を真似てショットするから、ほとんどラフや隣のコースから打つことになって、結果は相当な誤算であった。 2日目の夕食は軽く近くのチャイナ店でと考えていたが、2人前の餃子と豚角が想定以上の量だったが、父の遺言通りにこれらを食べ尽くしたので、体型がアン・ソンジュ選手に近づいてしまった。 そして次の朝も昨日と同じ食事をくり返して、明神ケ岳の登山に向かった。 熱中症予防の為にと、大量の氷を入れた大型の魔法瓶をリュックに背負い、メタ腹を抱えながら登山していく。 10時半過ぎに小屋横のベンチに辿り着くと、山ガールが2人座っていた。 彼女らに聞くと既に下山する処だそうで、僕ちゃん何故か途端に足が重くなった。 登山者もほとんど無く、山ガール達の話しでは頂上に辿り着いても、曇天のせいで富士山は拝めなかったと言う。 時々ドーンと聞こえる自衛隊の演習音も雷の様なので、「怖いから僕ちゃん、止ーめた」と途中から引き返してしまった。 その後の食事も想定外が続いて、昨晩我が家の体重計にそっと乗ると、何と3Kgオーバーの76Kgになっているではないか。 ゴルフもメタメタ、そして我が腹もメタメタ。 やはり貧乏人は、働くのが一番なのだろうか。 痩せたソクラテスになりたいな。