私の好きな豊真将が、昨日は横綱挑戦場所の日馬富も破ったので、3大関全員を土に付ける快挙を成し遂げたことになる。 彼は見ていて実に気持ちが良い。 以前から姑息な手段など一切用いず、真っ向勝負を挑んで負け続けても、礼儀正しさを失うことが無かったからだ。 私も格闘技を身につけて、「礼に始まり、礼に終わる」と教えられたことは間違いないと改めて悟ったのは、常に自分だけでなく相手をも大怪我を負わせることがあり得ると体得したからだ。 大学3年の時に久し振りに練習場に見えたS先輩から、「就職先もやっと決まったよ」「気持ちも落ち着いたから、フリー(試合形式で戦うこと)の相手をしてくれ」と望まれたことがあった。 当時私は既に2段を取っていたが、やや痩せた先輩は初段しか取れずにいた。 しかしこの世界はプロの相撲界とは違って、段位など関係なくして先輩は先輩である。 私はS先輩が技を出しやすいように、極力受け手に回って対局していた。 当時の私らは、後輩達の突きや蹴りを受ける時には平手でこれをさばいて、極力相手が突き指などの怪我をしないように気を付けたものだ。 同様にS先輩が左足回し蹴りを仕掛けてきた時に、私はすっと右手を出して手のひらで先輩の蹴りを受けた積もりだった。 するとS先輩はその場に「ウッ」と言って倒れた。 結果は私が手のひらで受けた時に、左足の親指関節を骨折したことが校内の病院で診察して貰って分かった。 就職先も決まって、会社訪問の機会も増えただろうに、しかしS先輩はその後会うと常に「俺がフリーを頼んだのだから、お前が気にすることはない」と、しばらくはびっこを引きながら明るく笑ってくれた。 その時以来、「この生来のごつい手は、決してひとには向けるまい」と誓った筈なのに、その年の佐世保での実習中に日本の娼婦を小突いていた米軍将校に、そして入社したてにオートバイでぶつかってきた酔っぱらいにと、2度程アッパーカットを振る舞ったのだから、今から考えると若気の至りだったとは云え恥ずかしくなる。 だから豊真将を見ていて、「年老いた私も今からでも遅くない、彼を見習おう」と思うのだ。 そう言えば2度程、OBとして女性とフリーを経験したことがあったことを思い出した。 勿論真っ向勝負して、相手の胸にごつい手を当てたりせずに対局したが、今年のOB会でもう一度体験して、「もっと撃って欲しい」と言ったら、きっと現役達から道場で袋叩きに遭うだろうな。
しかし9月に入って中日を迎えると云うのに、この連日の暑さからして地球はどうしちゃったのかと、この茶巾さんは心配になってくる。 何かの本で読んだが、太陽がさんさんと降り注ぐ日光も全量で約70%と決まっていて、地球との間の密約で、「おい、日本はそろそろ秋だな、ではちょっと光量を落としてやるか」と、元々太陽と地球は親子だから仲良く話し合いが出来ていたのだ。 勿論そうは言っても、今から正確には5550年前にパンドラの箱を開けられてしまったので、「飢饉」「火災」「地震」などと様々な悪霊が住み着いたのはご存じの通りだ。 ところが近年では、人間世界の中にも悪霊が浸透してきて、「子殺し」「親殺し」と実に情けない状態がこの日本でも起きている。 更には、「自分が死ぬのに道連れが欲しい」と、何の関係もないひとに斬りかかったりする輩も出たりするので、この茶巾さんが往来を歩いている時には、何時でも回し蹴りを見舞える様にと考えているから、いつの間にか元々の0脚が大0脚になってしまった。 昨日のテレビニュースではある空手家が、女子高校生達に「痴漢に手首を押さえられたら、相手の手を逆回しにして逃げなさい」と教えていたが、あれは考え方が甘すぎると、この茶巾さんは抗議したい。 大体この茶巾さんが万一、いや万々が一、痴漢になってしまったとして、「ちょっと、おねーちゃん、そこの林の中に寄ってらっしゃいよ」と、やさしく女性の手首を捕らえることなどあり得ない。 まずは頭を捕らえて口を塞ぐとか、大きく成り掛かったお胸を捕らえるのが痴漢の常道だろう。 何事も実戦に即した体験をさせなければ、女子高生達も「何だ、そんなことで逃げられるのだ」と、甘く考えてしまう心配がある。 今の日本は大人達が甘く考えてきたから、あちこちで閉塞してしまったのだ。 次世代を担う女子高校生達には、是非にも正しい体験をさせなければいけないと、昨日桜田門に「是非私を講師にしなさい」と電話したのだ。 そして電話の中で、それこそ手取、足取りして受話器の向こうの女史警官に話していたら、何故か私の鼻息が荒くなってきた。 すると受話器の向こうから優しい声で、「もう少し詳しく教えて下さいね」と言われて、「やばい、彼女は私を本当の痴漢と勘違いしたようだ」と、逆探知されない様に慌てて電話を切ったのだ。 実に話し合いが通じ難い世の中になったと思っていたら、「ピンポーン」と鳴って警官が来たと妻が告げている。
テレビでも報じていた中秋の名月の昨晩は、屋上に上がって双眼鏡や天体望遠鏡を通して、心行くまでお月様の表情を観察した。 さすがに満月だと望遠鏡をちらっと覗いた妻も、「眩し過ぎるわね」と言う程、神々しく輝いていたので、孫に見せる時には照度を調整するスクリーンが必要だなと思った。 そして月を眺めながら思い出したことは、我が太陽系が天の川銀河の一辺での大爆発を切っ掛けに、46億年前に徐々に出来上がっていったと言う宇宙論だ。 やがて太陽を中心にして水星、金星、そして原始地球などの惑星が出来てきた頃に、突然火星大の星の固まりが地球に「ガッチャーン!」とぶつかってきて、その固まりが「すんません、ちょっと酔っぱらっていてぶつけちゃいました」「ご迷惑をお掛けしたお詫びとして、これから先は私が貴方様の楯となって、御身を守らさせて頂きます」と、そのジャイアントインパクト後は月が地球の護衛官となったと云う説を、この茶巾さんは唱えているのだ。 お月様はそれ以降、それこそ身を挺して地球を守ってきたからこそ、あれだけのクレーターが出来たりしたのだ。 しかしある時、お月様もひとの子、いや太陽の子だから「最近はぶつかってくる隕石も少なくなったな」とやや気を許していると、突然地球を襲った大隕石があったのだ。 最初に自分が地球に約束したことは何だったのかと悔やんだお月様は、以来外にしっかりと目を見開いている様になって、それがやがて常に地球に対して背を向ける様になったと、この茶巾さんは月の由来説を学会に提唱しようとしている。 私が特に月に関心を抱くようになったのは、確か中1の頃だったろうか、歌手ザ・ピーナツが「チンチンチンとお月様」「お屋根の天辺で恋をしちゃった」と、思春期の私に恋の手解きを教えてくれたからだ。 中1と云うと、ほんの少し大人の世界を感じられる年頃だ。 それまではゴム紐飛びをしている女学生達が、フワァーとスカートを広げても平気で見ていたのが、「チンチンチン」以来恥ずかしくて見られなくなった当時が懐かしく思い出される。 最近勉強している物理では、電磁気学では磁界が発生すると、周辺の磁気を帯びやすいものに影響を与えると言う。 中1当時のこの茶巾さんは、かなり強烈な磁器だった様だ。 私の周辺には磁場が出来て、同期の女学生達に磁界を感じさせていた様だ。 そして彼女らは顔を赤らめたりするから、それがこちらにも「チンチンチン」と影響を与える。 されどだからと言って、それ以上に発展することはまったく無かった。 良いね、思春期の恋は。 されどこの茶巾さんが今の頭を持って当時にプレイバックしたとすると、「それこそ、チンチンチンだったろうな」と、美し過ぎる満月を眺めながら思い出した昨晩だった。
昔から秋になると様々な催し物があったが、この11日は米国では10年目を迎えた同時多発テロを、そして日本では半年たった東北大震災がテレビで報じられ、改めて悲しい出来事がこの茶巾さんの脳裏に呼び戻された。 長男家族と伊東で一泊した昨日は、3歳の孫に時間を合わせることになるから、この私は部屋で長時間それらに関連するテレビを観たり、都合5回も温泉に浸かったりして、心身共にかえって疲れてしまった。 しかし一晩経って考えてみると、心身共に更に老いさらばえていく我々は、やがては寝た切りとなったならば、孫達の成長のみが明るい話題となる時代がすぐ到来すると、小旅行を通じて悟らされもしている。 少しおしゃまにものが言えるようになった孫は、旅館で食事の最中に「鉢呂経産相の放射能発言は、余りにも幼稚過ぎるね」と私らが会話していると突然、「馬鹿だね」と言ったのには、全員大笑いをしてしまった。 しかしそれで受けたと思った孫は、帰りの車中でも「馬鹿だね」をくり返していたので、私は思わず「おい、鉢呂化するなよ」と注意してしまった。 2日間孫の様子を見ていると、我々とある程度話しが通じてきたからか、大人の会話を一生懸命聞いている感じだ。 9月に入っても夏の猛暑が続いている状態で、季節感覚が薄れてしまった日本では、同時多発不感覚で国民の感性が、東北地方を除いては薄れてきていると感じるのは、この茶巾さんだけだろうか。 そしてその東北地方でも、「安心、安全の為には高台移転が必要です」と、漁民達ですら海岸から移そうとするから、何時まで経っても再建計画が出来上がらない。 テレビではある地元民の方が、「我々漁民は海面の状態を常に肌で感じられる、海に接した所で生活すべきなのだ」「海が怖かったら船にも乗れなくなって、それでは漁民ではなくなってしまう」と話されていたことが、この茶巾さんには正解だと思われた。 勿論漁に出ている間に津波が押し寄せたりしたら、子々孫々の幼子達などが流される心配がある。 それ故にこの茶巾さんが声高に叫んでいるのは、何度も前述している「漁民の家のサブマージド(潜水艦方式)化」だ。 やがて老いさらばえていく我々も、ただ病気などを恐れているだけではいけないのであって、己の足元や体力を見詰めながら、しっかりと前を向いて暮らすべきなのだ。 それは子々孫々に我々の生き様を、動物達と同様に示さなければいけないからだ。 戦後、「権利ばかり主張したがる人間」が増えたが、それでは他力本願となって己の夢を構築することが難しくなる。 「365歩のマーチ」ではないが、今自力で出来る改善を、毎日真剣に考えるべき時代になったと茶巾さんは考えるのだ。 そしてそうしないと、この茶巾さんも孫から、「馬鹿だね」と言われてしまうだろう。
昨日は名古屋に住む大学クラブの同期生のSに電話すると、「円高のあおりを受けて、インドネシアにネジの製造工場を造ることにした」と話していた。 亡くなった彼のお母さんはかつて、「息子は大きな借金をして、何時もハラハラドキドキさせられます」と話されていたから、きっと今回も天国で同じ思いを抱かれているだろうと、話しを聞きながらそのことが脳裏を過ぎった。 その話を聞きながら父が50年程前に、既にあった東京工場よりも人件費が安く人が集まりやすいからと、故郷の筑波山山麓の村に工場を造った当時のことを思い出した。 金の卵がどんどん都市部に集まる時代が一段落して、農村でも工具の進歩から半農半工が少しずつ流行ってきた時代だ。 筑波工場を開設した当時の父は、自家用車と云えばダイハツミゼットしかなかったので、小6の私は夏休みになると助手席に乗り込んで、荷運びを手伝った当時のことを思い出す。 当時は常磐高速道など勿論無く、国道6号線をひたっ走りに柏、取手、我孫子、土浦と片側一車線の道を父がその三輪車を運転した。 そして土浦市街を通り抜けると左に折れて、まだ舗装されていなかった国道125号線に入るのだ。 当時ちょうど舗装化を進めていたその道路は、至る所に凸凹が出来ていて、前輪が一個のミゼットは右に左にと大きく揺れた当時が、とても懐かしく思い出されてくる。 しかもミゼットは窓がチャチなビニール製で、窓はバタンと内側に落として全開にするか全閉にするしかなく、トラックなどでほこりまみれの道をクーラーも無い時代だったので、難行苦行を重ねて行き来した当時が懐かしく思い出される。 しかし牛久を通り掛かると、「贅沢だから、誰にも言うなよ」と父に悪戯っぽい目を向けられて、沼の脇にぽつぽつ建ってきた鰻屋に飛び込んで、夢中になって口に放り込んだ鰻の美味しさったらなかった。 男の約束として、鰻を食べたことなど母や弟には話さずにいて、犯罪を共有した気分でいた私は、中1になって自我が強くなっても、父に反抗した覚えが一切無い。 そしてここ迄思い出してくると、今日会う孫の扱い方が見えてきた。 つまり孫とこの茶巾さんが、あることに犯罪意識を共有すれば良いのだと悟る。 今日は彼らを初めて、私らが気に入っている伊東の温泉旅館に連れて行く約束になっている。 温泉→男としての共有犯罪とは何か?、を孫の成長の為に真剣に考えなければならない。 そこの旅館は若い女性達にも評判なのだ。 そして父の悪戯っぽい目を思い出す。 連立方程式を紐解くと、答えはあれしかないだろう。 しかし答えが見える前に、「キャー!」と叫ばれる心配もあるのだ。 それでも孫の為に己を犠牲にすべきかと考えると、これこそ人目をはばかる夕刻、いや憂国の情だな。