旅の途中・・・

食と音と人の旅

ラマホテル/ネパール1991/1/1

2010年09月14日 17時54分45秒 | 
 多分3000mくらいだと思う。ラマホテル。ここはヒマラヤ山脈ランタン村(3500m)へ行く途中のバッティ(山小屋)。心持ち空気が薄い。トレッキングをスタートしてから3日目。はっきり言って辛い。ポーターのシェルパ、カンチャさんを雇って荷物を持ってもらっている。(寝袋等)だがド素人には大変だ。甘かった。こんなに辛いとは思わなかった。目の前をイノシシが通り過ぎたり、足を滑らすと絶対お陀仏な斜面、数百メートルある断崖の縁。あ~何という危ないトレッキングなんだ。聞いてないよ~!しかもツアー会社ではスニーカーで十分って・・・雪ありますよ~~~!朝早くから登り始めて次のバッティに着くのが夕方。昼は2時間ほど休憩。昼食はほぼ毎日大根か干しいぶりカリフラワーのカリィーで、ご飯んは標高が高くてそのまま炊けないので圧力鍋で調理。さすがにこんなに運動(トレッキング)したらお腹ぺこぺこ。大根カリィも美味しく食べられました。けどへとへと。さて後半戦のトレッキングだ!こんなのを3日間続けた。ただ夜にバッティの人やトレッカー?の人たちと踊ったり、歌ったりいろいろ面白い事もあった。そしてここラマホテルではなんと人生最高の星空を見る事ができた。やっと晴れたのだ。結局8泊9日のうち一日だけ晴れたのだった。そうそう明日ランタン村へ行くのだが、同じだけ降りなければならないのだ。村に近づくと子供たちが走ってやってくる。そして開口一番「ここ化膿してんだけど、傷に効くやつ」って・・・・そうか薬品が足りないんだここは・・・困ったことだ。とりあえず傷薬を塗ってやる。そしてじゃんけん遊びなんかして、友好を深める。で、となりでヤクがチラッとこっちをみているような気がした。「おまえは前世で私の子供だったんだよ」って????チベット密教だ!
ここらはブッタの祠がいたるところにあって、今ちょうどダライラマがウ゛ァナラシーに説教に来ていて、ここらのバッティの主人はみんなダライラマに会いに行っていて、女子供しかいない。ナンダカンダ言ってこうやって無事にいられるのは大日如来のおかげなのかな。
振り返ると良い旅だった。

ウ゛ィアナ・ドアレンテジョ(ポルトガル‘91)

2010年09月12日 19時06分10秒 | 
何もないわけではないが平和なのんびりした街。ちょういと立ち寄った街。ガイドブックにも載ってない。(当時)スペインに抜ける途中下車。泊まるところがあるのかどうかも解らず。まぁ行ってみよう。
なんかホント田舎だなぁ・・・白い円錐形の屋根やなんかは雰囲気ありますね。
夕方だったんでちょいと散歩して商店の上の宿に帰ると、店の前でギターを弾いている若人を発見。早速近寄って行き、「ちょっとワシにも弾かせろ。」ギターを貸してもらいブルースを歌った。I’d rather drink muddy water ・・・久々で、しかも弾きにくか~。でも盛り上がった、こんなもんで大受けするなんて。ニールヤングも彼らは知っていたりなんかして、いい感じ。最後はハグハグありがとうモードでさよならした。こんなたわいのないことなんだけど、音楽は凄い!と思った。見ず知らずの彼らと出会い一つになった瞬間。たぶんもう会う事は無いだろう。若人と店の人に感謝。そーいえば店の軒先でやっていたんだけど、お客誰も来なかったなぁ。・・・・

タベルナでナニ食べた?

2010年09月07日 18時24分57秒 | 
東方飯店にたどり着いた。ここはアテネ.トルコのチャシュメからキオス島経由フェリーで入国。トルコの食も決して嫌いではない。ただまだ羊系が続いていたのでそろそろ限界が入っていた。トルコパンもヨーグルトもオイシイ。羊のミートソーススパゲティも食べられた。でもそういうんじゃないんだな。羊の世界?ローカルバスもにおい系羊の世界。パンに羊の脂を塗ってまで食べる世界。そうそうイスタンブールにはきっと日本食でも何でもあるんだ。麺だってあるんだ。トルコは世界三大料理なのだ。でも今回は珍しく食欲に勝った。でも普通はイスタンブールはずさないでしょう。本当にどうしてもエーゲ海からギリシャに入りたかったんでしょうか。あの青いエーゲ海の真珠、真っ白な建物、猫が昼寝、(こんなイメージで、だから?ってとこなのに・・・)でも実際は夜の運行でキオス島以外ほかの島には寄らず、ただただ寝ていました。しかも寝過ごしました。アテネ港に着いて掃除のおばさんがウロウロしてその気配で起床。こんなんでいいのか?緩すぎやしないか?と思いながらフェリーを降りて地下鉄に向かう。安宿を見つけ街に繰り出す。目指すは東洋的飲食店。ん~~~韓国料理!!ユッケジャン美味しい!韓国冷麺美味しい!イラン/テヘランの乾いたすし(まぐろ)以来だ!そういえばアテネではタベルナでナニ食べたっけ?思い出せない・・・・

アンジュナババレストラン

2010年09月03日 13時37分17秒 | 
18年ぶりのババのマスターはワシの事を覚えていた。ワシは懐かしくて懐かしくて・・・グッときてしまいました。ここはアンジュナビーチ。初めてゴアに来たときちょうどこのババレストランの裏手の教会の近くに宿をとったのである。ただそこはシャワーなし水は井戸からバケツを放り込んで引き上げるタイプの宿(そんなタイプの宿なんてあるわけないとおもわれるかもしれませんが・・・)だったので大変でした。照明は裸電球一個その周りにはヤモリ付き.トイレはフィールドトイレットだったので星空を見上げながらがの用足しはいいものです、が・・・・・・けっこう当時(91年)はこのタイプの宿がありました。まだあるのかな?隣に滞在しているスイス人はこれが良いんだって言ってたけどワシは1週間後にはそこを出てカラングートの方に引っ越しました。(だって髪洗うのも大変なんですもん・・・)
引っ越してからも(長期滞在中、結局合わせて8ヶ月ほど滞在)ババレストランは通い続けていました。日本人が集まりちょっとした村状態で(ワシは村民にはならなかった)長くそこに居住ついている長老的存在の方がおりました。(なんかちょっといっちゃっているカンジなんで)それでもいろんな日本人がやってくるので面白い日々でした。ここでは書ける事とそうじゃない事がありますが書ける事を書きますが(当たり前か?)かけない事の方がかなり面白いんだが(いやいやくだらないだけかな?)次の話は比べると面白くない方なんですけど・・・・縁があった岡山大学の学生。ワシの友達と友達だった。それはトリバンドラムコウ゛ァラムビーチで出の会いでした。なぜか相撲世界大会(旅人級)を主催しいた。でもこれはビーチバレーボール世界大会(ビーチバレーではありません6人制)の腹いせではないかと思う。このバレーボール日本チームはアメリカとかヨーロッパチームに弱くて負けてばかりだった。ワシも参加したとき南印度方面を似たようなルートで回っていたアメリカ人と対戦する事になり惨敗。くやしい。ならば相撲ならってんで考えたんでしょうけど無理がないかい?彼は完全に相撲体型。ほぼ全勝でしょう。外人に教えるところから始めたのか?
ちなみに榎木孝明がそこにいました。バレー大会はでたんでしょうかねぇ?印度好きだったんですかね。
で、ワシ札幌なんですなどと話しているうちに利尻島の集会があってという話になったときワシの友達もその集まりに出ているよってことになり、なんと友達だったという。世界は狭い?この彼はゴアパーティが大好きで、いつも外人には負けられないと日本人魂を全開でした。なんかいつも顔とかに傷がついていたり血だらけになっているのはなぜ?パーティの次の日自分は無事でここに存在しているぞ~というアピール(本人曰く。)で着ていた衣服を(洗濯済み)長い竿にくくりつけ天高くなびかせるのであった。でもやつらといったいどんな戦いをしているんだろう?変なやつ・・・
しかしなんと一年後ワシが日本に帰国する少し前にバンコクでまた会ってしまったのである。心持ち大人になってたようななってないような・・・・日本的礼儀正しさを醸し出していた。
こんな奴らが(もっと危ないのがいっぱい)集まっていたババレストランは最高だ!・・・
うちのスタッフの後藤(一緒に旅した北大生)も世話になりました。このことはまた後程。ババマスターありがとう!イラストは91年当時アンジュナビーチ。浅野哲哉氏直筆のコピー。