浦賀奉行所
学校で習う歴史はあまり深く追究されることなく概要だけを学びます。
単に時間の問題なのではないかと思います。
本当の勉強は個人の努力によって行われるものなのかもしれません。
浦賀(神奈川県横須賀市)を訪れるため調べると、つくづくそれを感じます。
浦賀の歴史は時に近代日本史そのものであることに気がつきます。
特に「浦賀奉行所」の役割に目を向けると激動の時代を過ごしたのだなぁ、と思います。
幕府にとっても政府にとっても浦賀は重要な街であったことでしょう。
<浦賀奉行所役割>
- 江戸経済の目付役
江戸に入ってくる生活物資の流通をチェックしていた。 - 海防の最前基地
- 異国船との交渉・応接
- 軍艦の製造
※時代が進むとともに役割が増え、変化していきました。
そんな政治上・軍事上重要な拠点となった浦賀奉行所跡が西浦賀にあり、
ここを訪れなければ浦賀を訪れたことにはならないと思い、出かけました。
ウォーキングマップ
「京急線で行く旅(2) 浦賀・燈明堂への旅 その1」にて参照のこと。
ウォーキングスタート
9.浦賀奉行所跡へ
旧浦賀街道を離れ、西へ向かいます。
下調べで説明板があるだけの場所であることは分かっていたのですが、
歴史の表舞台に立ち、歴史が変わるところを目の当たりにした場所ですから、
やはり見ておきたいと思いました。
途中、川間町内会館の前を通るので、ぜひ足を止め、2階切妻壁と玄関上妻壁の部分を見てみてください。
こちらにも「鏝絵」があります。
石川梅尾の作品です。
浦賀散策後、横須賀市のHPで見つけたので、私は見ることができませんでした。
(ホント、念入りな下調べの必要な所だよねぇ、横須賀って。)
静かな住宅街を歩いて行くと、なにやら大きな説明板が見えてきます。
そちらが「浦賀奉行所跡」です。
なんと、奉行所があった場所には集合住宅が建てられていました。
分かっていたことでしたが、やはり複雑な気持ちになってしまいました。
(団地にしちゃったのねぇ。)
説明板を読みますと、堀の石垣と表門の前にかかっていた石橋の伊豆石しか残っているものはないということなのですが、
この石垣がそうなのでしょうか。
廃止となり、誰も住んでいない団地の前で立っていても仕方がないので、次の目的地に向かうことにしました。
この団地を取り壊した後、何ができるのでしょう。
やはり、説明板ぐらいはちゃんと残しておいてほしいと思います。
※浦賀コミュニティセンター分館に浦賀奉行所の模型が展示されています。
10.大六天榊神社
団地に沿って回り込むように歩を進めます。
浦賀は海の街なのに、ちょっと海岸線から離れると、私にとってはなじみのある山の風景が広がります。
海も山もある三浦半島ゆえ、自宅の近所にあるおそば屋さんには「山海そば」というメニューがあり、
私、感心したのでありました。
(話がそれました。)
大六天榊神社は思ったより近くにあり、すぐ見つかりました。
御祭神は面足彦命(猿田彦神)で、正式名称を「榊神社大禄天神」という、川間(西浦賀町5丁目)の鎮守です。
こちらにも「三浦の善吉」の「鏝絵」があります。
(ガラス板で保護されているため、反射して分かりづらいですね。すみません。)
この龍の鏝絵は「三浦の善吉」こと石川善吉と善吉の次男・吉蔵の合作だと伝えられています。
左の「降り龍」が吉蔵、「昇り龍」が善吉の作だと言われています。
最初はその良さがすぐ分からなかった「鏝絵」ですが、写真でもなんでも何度も見ているうちに、
感心してきます。
描写の細やかさだけでなく、カッコいい龍ですね。表情もいい!
決して大きな社殿ではありませんが、人々の思いがたくさん込められた神社であることが伝わってきます。
エチケット・マナーを守って伺いたいものです。
お世話になった資料
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横須賀美術館てづくりおさんぽマップ
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別冊歴史読本54「横須賀歴史読本」
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「歴史のまち・浦賀 散策の手引き」、「浦賀奉行所と与力・中島三郎助」
(いずれも浦賀コミュニティセンター分館でいただいたもの) -
エイムック3103「横須賀本」
サクサク書き進められないのは歴史的にも価値のあるものが多いからだと思う。
手抜きができません。(簡略化するようにはしてるけれど)
つづく≫