映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

宗左近 語録

2012年11月05日 | 映画の覚書
●天と地の間
― 夢。それは、何でしょうか。無意識の沼の中から咲き出る、動く花です。人間の意識の奥には、人類発生以来の、いや、場合によって人類発生以前の、長くて広い体験の澱(おり)が淀んでいる。禅で言う「父母未生以前そも如何」の、その父母未生の事です。極端に言えば、宇宙発生以前からの、無からの、遥かな記憶が宿っている。だが、目覚めている時の人間は、滅多にそれに気付かない。けれども、眠りの中で出会う事がある。それが、夢です。夢の中では、殆ど全てが可能です。空を飛ぶ事も出来る。死んだ者が生き返って来る事も出来る。そこに起るのは、奇蹟です。しかし夢の外では、それらは不可能です。奇蹟は起らない。言い直せば、父母未生とは、全ての可能性を孕んでいての自由、という事です。そして、その自由を与えてくれていたのが、世界の創造主(=神)であったと言えます。こういう夢が、眠りの外に出て、形を持つ事があります。それが芸術です。
 「天」とは、古代中国の思想の生んだ天、つまり、宇宙の神であると共に、その神のおいでになる場所、大空の遥かな向こうの奥、の事です。「地」とは、場所としての大地であると共に、そこに内蔵されていて万物を育む大きな生命、の事です。《虚空》とは、「天」と「地」を浮かべている、極みの向こうまで行ってもなお極まらない存在の事です。宇宙物理学者は、次のように伝えています。地球をその星の一つとして持つ銀河系宇宙。そこには、二千億個の星がある。その銀河系宇宙の外に、また、実に多くの宇宙があって、その合計は二千億個。全ての宇宙を合わせた大宇宙には、したがって、総計二千億の自乗の星がある。その大宇宙が、即ち《虚空》です。中国と日本の芸術家は、その《虚空》を、ありありと感じ取っていました。《虚空》の声に耳を澄ます事。それが、芸術家の任務です。その声は、「天」の声を、「地」の声を、まして「人」の声を、つまり、全ての「天地人」の声を、超えているのです。「神」の声をも超えています。超存在である《虚空》は、宗教の奥にあって、深い無意識の底から、遠く啓示の光を発して来る存在です。その光が、声です。 (『縄文物語』新潮社より)


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