●映画に於けるドラマについて (小津安二郎の遺言)
― 秋も深まった雨模様の日、臨終間近の小津さんを大学病院に訪ねた折り、私に小津さんが語った言葉が改めて思い出される。
「映画はドラマだ、アクシデントではない!」
死の病床で手術によって半ば声を失いつつある小津さんが、二度繰り返して語ったこの言葉が、私への個人的な遺言と為ってしまった。それが長い歳月を経た今、尚も幻聴のように耳に響くのみで、小津さんが語ろうとした真意は不明のままである。
だが、この余りにも短過ぎる格言らしき言葉から、秘められた黙示を私自身受け止める事が出来なくもない。おそらくドラマとアクシデントという言葉を対比的に使いながら、小津さんは我々人間に関わるものとしてのドラマと、偶然の出来事に過ぎないアクシデントとを鋭く際立て、究極には映画は人間のドラマを描くものであり、如何にそれが衝動的ではあっても偶然の出来事を描き出すべきではないと、最後に言い残そうとしたのだろう。そうではあったにしても、あれ程の諧謔の人であった小津さんが、果たしてこうした当然過ぎる事を語り伝えようとしたとは到底信じられない。私に限らず誰しもがその言葉の裏に隠されている意味を問い訊ねたくなるのではないだろうか。
小津さんの映画が如何にただならぬ表現であったか、いま一度思い起こしてみよう。それは見ている我々観客を決して映し出す事の無い底知れぬ鏡であり、我々が映画を見ているのではなく、映画の方が観客を見ていたのである。それは何と映画の存在を否定するものであった事だろう。
事実、小津さんの作品は日常の何気無い出来事を並列的に接続するだけの起伏の無い筋立てであり、俳優たちもまた可能な限り演技する事を禁じられる余り、ドラマとしての映画と言うにしては程遠いものであった。
従って小津さんが病床で私に語ったドラマとは、映画の中に描かれているドラマ、その偽りの物語の事ではなかっただろう。寧ろ、ドラマは映画と小津さん自身とのあわい(間)にあり、無秩序極まる世界を如何に映画というまやかしの虚構によって捉え、かりそめにも如何に秩序立てて表現するか、それが死を間近にした小津さんの脳裏に浮かぶ真のドラマ、映画への反映画の事に他ならなかったに違いない。
確かに小津さん程映画を深く愛しながら、それが限りなく無秩序であり、まやかしに過ぎない事を露に告白した人もいない。
そして自らの作品が決して偶然のアクシデントではなく、反復とずれによって厳しく抑制され、秩序立てられる事によって、辛うじてドラマで有り得た事を、小津さんは死を前にして歓喜を以って語りたかったのではないだろうか。
●映像 見る事の死
― カメラのレンズは人間の眼によって覗かれ、自由に操作される限り、両者は同等に機能し、人間の眼の代わりをカメラのレンズが果していると思われがちだが、事実は厳しく相反する関係にあっただろう。人間の眼の機能を、見るという言葉で表現するのであれば、カメラのレンズのメカニックな機能は、見る事の死であると言わざるを得ない程、両者の間には測り知れない隔たり、深い断絶があったのである。我々の眼が物を見ている時、既にそこにある現実、様々な事物や出来事を個別的に見ているのではなく、それらが連続する総体としての世界を見ているのである。従って人間の視線は一瞬たりとも運動を停止し、非連続の状態に留まる事は出来ない。一点に眼を凝らし、見詰めているようではあっても、それは次の瞬間に新たなる運動を起す為の一時的な、仮初の休止符に過ぎない。
確かに一枚の絵の前に佇み、じっと見入っている事がある。だがその時、我々の眼は果たして何を見ているというのだろうか。おそらく何かを見ているという意識ではなく、絵の空間の拡がり、タブローの表面にただ視線を滑らせ、行きつ戻りつしながら反復を繰り返しているのである。それが絵に見入っている時の言いようの無い浮遊感であり、気付かぬ内に作品に魅せられている事の神秘さであるのだが、絵に心を奪われている事が意識された瞬間、そうした忘我的な陶酔は掻き消え、単なる事物としてタブローがそこにあるだけである。
このように人間の生きた眼差しはこの世界の表面を軽やかに滑り、絶えず運動を続けており、何かに見入る事による視線の停止、非連続は有るか無きかの一瞬に過ぎず、それが意識された瞬間には視線は既に新たな運動を始めているのである。言葉を換えれば、我々が何かを見ていると意識するのは、僅かに限られた時間でしかなく、何も意識せずに物を見ている、そうした無用、無償の眼差し、夥しい余剰の眼の動きに支えられて、我々はこの現実との絶えざる連続を保ちながらこの世界の中に生きつつあるのである。
それとはまさしく相反して、カメラのレンズを通しての現実、この世界を見る事は、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、夥しい余剰の眼の一つの視点に注がれ、集中するように抑制する事であった。
限りなく拡がる世界の空間から特定された一つの被写体を選び、画面に切り取り、それ以外の空間は存在しないかのように排除し、無視する事を求める映画の映像は、人間の生きた眼が無意識の内に呼吸するリズム、その無用な遊びを禁じるようなものであっただろう。しかも映画はそれに見入っている我々の時間といったものにまで介入し、厳しく制限を加える事によって、見る事の死を宣言するに等しかったのである。
同じカメラによる表現でありながら、一枚の写真と映画とを対比するならば、動く映像としての映画のありよう、その暴虐ぶりがより鮮明になるに違いない。現実にそこに在る物を映し出す限り、映画の映像と写真は共に複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、写真と絵画は全く同質のものであっただろう。一枚の写真もまた絵のタブローを同じように見ているのであり、夥しい余剰の眼差しに支えられて、今我々は紛れも無くその写真、その絵を見ている事に気付くのである。
だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらに我々がそれに見入っている時間に至るまで厳しく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。
嘗て映画は時間の芸術という美しい名前で呼ばれた時代があった。しかもそれは時間とスピードに魅せられ、幻惑された二十世紀を象徴する言葉でもあっただろう。映画はそのフィルムの一齣、一齣が、一秒間に二十四駒という眼には留まらぬ速度で動く事によって、網膜に残像が記し付けられ、我々はそれを連続する映像として見るのである。その限りでは映像の一齣、一齣に加えられた速度、時間を停止してしまえば、映し出されているものは一枚の写真と変わらず、絵のタブローと同様に我々の眼が自由にそれを見る事が出来る筈である。
従って映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムの一齣、一齣の動きのみならず、一時間、或いは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。そして息衝く間もないスピードの表現である事が、僅かに時間足らずの間に人間の一生を描く事が出来た理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語り得たのである。
しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休む事のない時間の速度に囚われ、その奴隷と化する事でもあった。静止して動く事のない絵画や写真の場合は、様々な視点から自由に眺めながら、自らの内面でゆっくりと対話する事も出来るだろう。だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついには一つの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画に於ける見る事の死であったのである。 (『小津安二郎の反映画』吉田喜重=著/岩波書店より)
― 秋も深まった雨模様の日、臨終間近の小津さんを大学病院に訪ねた折り、私に小津さんが語った言葉が改めて思い出される。
「映画はドラマだ、アクシデントではない!」
死の病床で手術によって半ば声を失いつつある小津さんが、二度繰り返して語ったこの言葉が、私への個人的な遺言と為ってしまった。それが長い歳月を経た今、尚も幻聴のように耳に響くのみで、小津さんが語ろうとした真意は不明のままである。
だが、この余りにも短過ぎる格言らしき言葉から、秘められた黙示を私自身受け止める事が出来なくもない。おそらくドラマとアクシデントという言葉を対比的に使いながら、小津さんは我々人間に関わるものとしてのドラマと、偶然の出来事に過ぎないアクシデントとを鋭く際立て、究極には映画は人間のドラマを描くものであり、如何にそれが衝動的ではあっても偶然の出来事を描き出すべきではないと、最後に言い残そうとしたのだろう。そうではあったにしても、あれ程の諧謔の人であった小津さんが、果たしてこうした当然過ぎる事を語り伝えようとしたとは到底信じられない。私に限らず誰しもがその言葉の裏に隠されている意味を問い訊ねたくなるのではないだろうか。
小津さんの映画が如何にただならぬ表現であったか、いま一度思い起こしてみよう。それは見ている我々観客を決して映し出す事の無い底知れぬ鏡であり、我々が映画を見ているのではなく、映画の方が観客を見ていたのである。それは何と映画の存在を否定するものであった事だろう。
事実、小津さんの作品は日常の何気無い出来事を並列的に接続するだけの起伏の無い筋立てであり、俳優たちもまた可能な限り演技する事を禁じられる余り、ドラマとしての映画と言うにしては程遠いものであった。
従って小津さんが病床で私に語ったドラマとは、映画の中に描かれているドラマ、その偽りの物語の事ではなかっただろう。寧ろ、ドラマは映画と小津さん自身とのあわい(間)にあり、無秩序極まる世界を如何に映画というまやかしの虚構によって捉え、かりそめにも如何に秩序立てて表現するか、それが死を間近にした小津さんの脳裏に浮かぶ真のドラマ、映画への反映画の事に他ならなかったに違いない。
確かに小津さん程映画を深く愛しながら、それが限りなく無秩序であり、まやかしに過ぎない事を露に告白した人もいない。
そして自らの作品が決して偶然のアクシデントではなく、反復とずれによって厳しく抑制され、秩序立てられる事によって、辛うじてドラマで有り得た事を、小津さんは死を前にして歓喜を以って語りたかったのではないだろうか。
●映像 見る事の死
― カメラのレンズは人間の眼によって覗かれ、自由に操作される限り、両者は同等に機能し、人間の眼の代わりをカメラのレンズが果していると思われがちだが、事実は厳しく相反する関係にあっただろう。人間の眼の機能を、見るという言葉で表現するのであれば、カメラのレンズのメカニックな機能は、見る事の死であると言わざるを得ない程、両者の間には測り知れない隔たり、深い断絶があったのである。我々の眼が物を見ている時、既にそこにある現実、様々な事物や出来事を個別的に見ているのではなく、それらが連続する総体としての世界を見ているのである。従って人間の視線は一瞬たりとも運動を停止し、非連続の状態に留まる事は出来ない。一点に眼を凝らし、見詰めているようではあっても、それは次の瞬間に新たなる運動を起す為の一時的な、仮初の休止符に過ぎない。
確かに一枚の絵の前に佇み、じっと見入っている事がある。だがその時、我々の眼は果たして何を見ているというのだろうか。おそらく何かを見ているという意識ではなく、絵の空間の拡がり、タブローの表面にただ視線を滑らせ、行きつ戻りつしながら反復を繰り返しているのである。それが絵に見入っている時の言いようの無い浮遊感であり、気付かぬ内に作品に魅せられている事の神秘さであるのだが、絵に心を奪われている事が意識された瞬間、そうした忘我的な陶酔は掻き消え、単なる事物としてタブローがそこにあるだけである。
このように人間の生きた眼差しはこの世界の表面を軽やかに滑り、絶えず運動を続けており、何かに見入る事による視線の停止、非連続は有るか無きかの一瞬に過ぎず、それが意識された瞬間には視線は既に新たな運動を始めているのである。言葉を換えれば、我々が何かを見ていると意識するのは、僅かに限られた時間でしかなく、何も意識せずに物を見ている、そうした無用、無償の眼差し、夥しい余剰の眼の動きに支えられて、我々はこの現実との絶えざる連続を保ちながらこの世界の中に生きつつあるのである。
それとはまさしく相反して、カメラのレンズを通しての現実、この世界を見る事は、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、夥しい余剰の眼の一つの視点に注がれ、集中するように抑制する事であった。
限りなく拡がる世界の空間から特定された一つの被写体を選び、画面に切り取り、それ以外の空間は存在しないかのように排除し、無視する事を求める映画の映像は、人間の生きた眼が無意識の内に呼吸するリズム、その無用な遊びを禁じるようなものであっただろう。しかも映画はそれに見入っている我々の時間といったものにまで介入し、厳しく制限を加える事によって、見る事の死を宣言するに等しかったのである。
同じカメラによる表現でありながら、一枚の写真と映画とを対比するならば、動く映像としての映画のありよう、その暴虐ぶりがより鮮明になるに違いない。現実にそこに在る物を映し出す限り、映画の映像と写真は共に複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、写真と絵画は全く同質のものであっただろう。一枚の写真もまた絵のタブローを同じように見ているのであり、夥しい余剰の眼差しに支えられて、今我々は紛れも無くその写真、その絵を見ている事に気付くのである。
だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらに我々がそれに見入っている時間に至るまで厳しく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。
嘗て映画は時間の芸術という美しい名前で呼ばれた時代があった。しかもそれは時間とスピードに魅せられ、幻惑された二十世紀を象徴する言葉でもあっただろう。映画はそのフィルムの一齣、一齣が、一秒間に二十四駒という眼には留まらぬ速度で動く事によって、網膜に残像が記し付けられ、我々はそれを連続する映像として見るのである。その限りでは映像の一齣、一齣に加えられた速度、時間を停止してしまえば、映し出されているものは一枚の写真と変わらず、絵のタブローと同様に我々の眼が自由にそれを見る事が出来る筈である。
従って映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムの一齣、一齣の動きのみならず、一時間、或いは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。そして息衝く間もないスピードの表現である事が、僅かに時間足らずの間に人間の一生を描く事が出来た理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語り得たのである。
しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休む事のない時間の速度に囚われ、その奴隷と化する事でもあった。静止して動く事のない絵画や写真の場合は、様々な視点から自由に眺めながら、自らの内面でゆっくりと対話する事も出来るだろう。だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついには一つの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画に於ける見る事の死であったのである。 (『小津安二郎の反映画』吉田喜重=著/岩波書店より)
これから目薬点して寝ます。
これから胃薬飲んで寝ます。