映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

晩春 ~映画の読解 (7)

2010年11月12日 |  晩春
     ■『晩春』 (1949年/松竹) 小津安二郎 監督


●ミシン-(2)
 《ミシン》は、紀子(原節子)を玄関に出入りさせながら、それとなく左隅に映り込ませています。これが妙なカメラ・アングルなのです。曾宮の家の屋内は、空間を真正面から捉えたアングルで概ね構成されているのですが、この玄関を捉えるカットだけが、まるで空間を斜めに裂くようなアングルになっていました。一見すると、誰かの眼に映る映像のようにも思えるのですが、実際には誰からも見られていません。ある1カットを除けば……と言いますか、その1カットが重要なのです。そこで注目したいのは、この妙なアングルと《ミシン》によって表現されているものです。

 (※写真:1)       (※写真:2) 
 (※写真:3)       (※写真:4) 

 最初に、この妙なアングルが登場するのは、紀子がお茶会から帰宅する場面です(※写真:1)。この時、家の中には父・周吉(笠智衆)と助手の服部(宇佐美淳)が居る設定でした。ですから、帰宅する玄関口の紀子の映像は、てっきり周吉か服部のどちらかが座っている位置から見えているアングルだと思えてしまいます。ところが、その直後の、机に向かっている二人の様子や、繰り返される紀子の挨拶「ただいま」からも分かるように、二人は玄関口の紀子の姿を確認していません。思えば、二人が座る位置から玄関口が見えないであろう事は、メーターを測りに来た男への対応の仕方で、暗に示されていました。

 (※写真:5)       (※写真:6) 

 では、《ミシン》が左端に映り込んで見える、この妙なアングルは、いったいどの位置から見た映像なのか…? その答えは、ちょいちょい曾宮家の手伝いに来ていた林しげ(高橋豊子)によって示されていました。服部が訪ねて来た場面です。人の視線として例外的に描かれていた1カットです(※写真:8)。

                         (※写真:7) 
                         (※写真:8) 
                         (※写真:9) 

 そこで彼女がしていた手仕事は、縫物でした。この作品中、唯一、縫物をするカットです。滝廉太郎作曲の『花』(♪春のうららの隅田川…)が背後に流れて来た時、紀子が洗濯物を畳んでいたのも同じ位置でした(※写真:11)。一家の主婦であれば、そこでピンと来るでしょう。家の中には、それぞれ居心地の好い場所というものがあり、暗黙のうちに家族の座る位置は決まっていたりします。つまり、あの妙なアングルは、曾宮家の主婦が座る位置から、玄関口を覗いたものであった……そこは、亡き《母(妻)》の居場所であった可能性があります。能の『隅田川』は、人攫いに遭った子を探し、辿り着いた隅田川でわが子の死を知った母が狂女の舞を舞うという、云わば、子を想う母の愛が主題です。ふと考えてしまいます。もしも紀子の母が死なずに生きていたならば……。

 (※写真:10)       (※写真:11) 

 しげは玄関口で、結婚式の写真と新婚旅行の土産物を服部から預かります。その際のカットでは、ミシンに加え、縫物の道具によっても主婦の居場所が誇張されていました(※写真:12)。その後、しげは封筒の中の写真を取り出し、それを夫の清造(谷崎純)へ見せながらこう呟きます。

61=曾宮の家 座敷
 し げ  「この人、紀子さんの旦那さんになるかと思ってたによ」
 清 造 「ほんとだ」

                         (※写真:12) 
                         (※写真:13) 
                         (※写真:14) 

 この台詞の際にも、画面手前には縫物の道具、つまり主婦の居場所を映り込ませています(※写真:14)。遡れば、叔母のまさが最初に思い付いた紀子の結婚相手も、やはり服部でした。もしも紀子の母が死なずに生きていたならば、とっくの昔に、紀子と服部を一緒にさせていたのではないでしょうか…。そう思わせる場面でした。そして、この直後が能舞台『杜若(かきつばた)』です。能楽堂での紀子の表情には、単に父の再婚相手と思しき三輪秋子(三宅邦子)への嫉妬心や、父に対して抱く不潔な感情だけではなく、服部への断ち難い想い(つながった沢庵)や、亡き母への懐旧の情が複雑に交錯し、それ故の深まる悲しみや孤独感が表現されていたように思います。杜若の精の舞を、父と娘の結ばれぬ恋の舞と解釈する向きもあるようですが、紀子と服部の関係や、紀子と《亡き母》の、或いは、周吉と《亡き妻》との関係に生ずる舞と捉える方がしっくり来ます。

 玄関を捉えるカットは、斜めのカメラ・アングルともう一つ、突当り左に捉えるカメラ・アングルも存在していました。そこに、意識的な区分を感じます。具体的には、玄関を出入りする人物の区分です。前者のアングルからは、紀子と服部、それと小野寺(三島雅夫)が出入りします(※写真:15)。後者のアングルからは、父・周吉、叔母のまさ、紀子の友人アヤ(月丘夢路)の出入りです。

 (※写真:15)       (※写真:16) 
 (※写真:17)       (※写真:18) 

 後者の画面でも《ミシン》は右側に映り込みますが、前者の画面とは明らかに違う狙いを感じます。前者のアングルが、《亡き母》の“まなざし”であるかのように表現されていた事は元より、《撮影しているカメラ》→《ミシン》→《玄関口》、がほぼ直列で一体化した位置関係にあったのに対して、後者の画面では《ミシン》と《玄関口》は《撮影しているカメラ》に対して正対した位置にあり、しかも《ミシン》と《玄関口》は廊下を挟んで対照する位置にありました。この意図を読み解くヒントは、どうも玄関それ自体のカットにあったような気がしています。お茶会、能楽鑑賞、叔母の家の玄関(※曾宮家とは逆の突当り右。※写真:19)で紀子と挨拶を交わす三輪秋子の凛とした佇まいとも対比させていた、叔母まさの玄関でのカットです(※写真:21)。

 (※写真:19)       (※写真:20) 

 見送る周吉に対し、ポンポンと胸元と叩きながら呟く台詞が暗に示していたような…。

81=曾宮の家 玄関
 ま さ  「やっぱり蝦蟇口ひろったのがよかったのよ」
 周 吉 「あああれ届けときね」
 ま さ  「大丈夫よ、届けるわよ」

                         (※写真:21) 

 これら二つのカメラ・アングルによって表現されていたものは、善行と悪行といった単なる道徳的な分類とは違う、品性の分類であったように思います。偏に、《亡き母》の生前の性格を表現する為の分類とでも言いますか……明るくて大らかで清潔な、且つ道徳的でもあった……そんな《亡き母》の面影が《ミシン》によって表現されていたように感じます……つづく


                                                      人気ブログランキングへにほんブログ村 映画ブログへ

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 晩春 ~映画の読解 (6) | トップ | 晩春 ~映画の読解 (8) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

 晩春」カテゴリの最新記事