PPKオーナーの奮闘コーナー

写真付きで日記や奮闘の様子をお知らせします。

追憶 5

2009-04-26 18:03:47 | リラックス

さて私の5歳未満の記憶としては以前に書いてきたような事しかありません。

長野県に預けられて年明けから地元の中野市の中野小学校という町の真ん中に有る学校、とは言っても志賀高原の山から流れ出る夜間瀬川の扇状地に出来た町ですから、信濃川(長野県では千曲川と呼ぶ)にいたるたんぼの間の全体になだらかに坂になったところに街が出来上がっているので、街の一番上に小学校・一番下に中学校というシンプルな街のその小学校の隣にある公立の保育園に年長さんとして入園したのを覚えています。

所でその中野小学校というのは立派な建物の学校で作曲家として有名な中山晋平先生がかなりの期間教鞭を取っていらっしゃったそうです、子どもながら関係する色々な資料が置いてあったのを覚えています。

私は保育園の記憶として、保育園と小学校がドア1枚でつなッがているのがとても不思議なような気がしていました。

それとガキ大将の子達が女の子をからかっているのがとても嫌いで、弱いくせにいつも向かって行ったように思います、ガキ大将達にはしつこくて絶対に諦めないので嫌がられていました、いつごろからか私が近づいて行くだけでガキ大将達はいやそうな顔で去っていくようになりました。

念のためその女の子が好きだったからでは無かった様で、強いものが弱いものをいじめていると体がじ~と痺れてきて、とにかく弱くても体当たりして足にしがみつくだけで相手が嫌気がさすまでしがみついているのは 「すっぽん」 の様だったようですが、小さいながらも「何とかする」戦法というか戦略を身に付けていたのだなーと今思うと感心いたします。

もう1つこの頃の1大事として自分ではそれほど「さびし~い」という思いでしたのではないと思うがこんな事がありました。

中野の町は小学校で説明したように街の南側に長野電鉄の中野駅があり、北側の街の扇状地の上に向かい志賀高原の下の湯田中温泉に行く線路が中野小学校の道路を挟んで松川駅という名でありました、また中野駅からは野沢温泉の方に向かう線路も北にのびていました。

この小さな町の中心的な中野駅は私の住んでいた地区からは子どもの足で10分~15分位の所にありました、私はそこまで三輪車で行き電車を降りてきて改札口を通っていく人を眺めては時間を過ごして家に帰っていたようでした。

ある日、夜になっても 「きよ坊が帰ってこない」 と大騒ぎになり、地元の消防団・警察・町内会の皆さんで捜索が始まったそうです、勿論街のすぐまわりは山や川田んぼに畑どこにはまっているか解らないと心配を掛けたようです。

結局は駅の待合室で寝てしまったというだけだったようですが、私を育ててくれた母の姉の叔母さんは私を抱きかかえてそうとう泣いたそうで申し訳無い事をしたなと思いますが自分では 「かあちゃんがかえってくるんじゃないか・・・」 と毎日何千人もの人を見ていたのだと思います、今でも何となく 「待ち長いな」 と言うような妙な感触は脳裏にあるような気がします。


追憶 4

2009-04-04 12:49:56 | リラックス

秋田県での4~5歳時の記憶のもう1つは・・・どなたでも経験があるとは思いますが私だけかもしれません。

それは記憶と言うよりも「感触」の記憶というべき事です。

国鉄花輪線の湯瀬温泉駅は川沿いの温泉郷より小高い所にあったようですが、そこで遊んでいた私が「うんこ」をしたくなって慌てて六助旅館に帰ろうとしたその時、温泉街に通じる下り坂を勢い良く降りていったのも助長したのかも知れませんが、もう期は熟して爆発寸前になり道路の横の窪地にしゃがみこんで「ぱんつ」を下ろそうとしたその瞬間・・・果てしなく堤防が決壊して張り詰めていた痛みと緊張感からいきなり快感と平和な気持ちが訪れたのですが・・・数秒後生暖かくてどっさりと重たいものが「ぱんつ」のなかでもっこりと威張りだしました。

半ズボンを穿いていた私はどうしようもなく、とても恥ずかしい気持ちで一杯に成りとぼとぼと言うかモコモコと歩いて六助旅館の母を目指して帰った生暖か~い体感記憶をこの年に成ってもおぼえています。

小さい頃の記憶とは何処まで本当のことなのか良く解りませんが、多分体で覚えたり体感できたものは死ぬまで残りそうな気がしますが、皆さんは如何ですか!