中学の修学旅行は京都・奈良だった筈で、高校の修学旅行は私のクラスは熊本・長崎だった筈なので、修学旅行では広島には行っていない筈でした。
では長崎の原爆資料館だったのだろうか。最後の館外に出る前に、感想を記すノートがありました。それを見ると、同級生たちが記した「原爆は本当に恐ろしいと思った」「世界が平和でありますように」「戦争反対、絶対反対」といった文言に、なんとも言いようのないやるせなさ、憤りが湧き起こったのを覚えています。しかしそれに対して自分の言葉をぶつけようとして、結局それは自分に対するやるさなさ、憤りになったのでした。
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当時も、そして2025年の現在も、人間は戦争を続けています。それは「世界が平和でありますように」という願いが、なんと無力で空虚なものであるかを示しています。
戦争が大好きな人間はいません。(本当は少しはいますが極少数の筈です)
平和を望まない人間はいません。(本当は少しはいますが、それはその人の周りで何かが捻じれているからです)
それでも実際には戦争は起きています。それは誰かがその命令を出し、それに多くの人間が従った事を意味しています。何故なのでしょうか。
被爆地の人々は原爆の特殊性を訴えて、とにかく核廃絶を求めている訳ですが、根本的には、戦争を始められる人間は核兵器を発射し得る人間ではないかと思います。(だからこそ戦争を無くす前に、まず核兵器を無くす必要があるとも言えるのかもしれませんが)
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80年前に日本は戦争をしていた訳で、その時日本にいた全ての人は戦争に巻き込まれていました。80年前まで世界大戦が続いていた訳で、その時地球上にいた全ての人間は世界大戦下に生きていた訳です。
以前に書いたように私の父は東京大空襲の被災者です。祖母は関東大震災と東京大空襲の両方を生き延びました。しかし実際には父は小学校にも上がっていない幼児だったので、当時の事はうろ覚えでした。祖母も自分の周囲の人間は皆同じ境遇であったので、それについて語る事は実際には殆どありませんでした。
当時、全ての日本人は戦争体験者だった訳で、語る必要はありませんでした。
ところがその子供、孫である我々は、上の世代が全員知っている事を知らないのでした。
激しい差別に苦しんだ人々の間で、次世代にその差別体験を伝えるべきかどうかで論争が巻き起こったと聞きました。何も知らない無垢な子供には、恐ろしい時代の体験は伝えない方がいいのではないか、という意見も強く主張されたそうです。「寝た子を起こさないで欲しい」という事でしょうか。伝える側にも痛みを伴ないますし、伝わらない事の不安もあったのかもしれません。
私は平和な暮らしの中で人間(日本人と限定してもいいのかもしれません、海外の人間をそこまで良く知りませんので)を放っておくと、仲間内でどんどん差別的になる、と思っています。
差別と戦争は表裏一体です。向こう側にいる人間に対する想像力が欠如すると、軽口を叩き、自分達だけ良い目を見ようとします。そして躊躇もなしに<ボタン>を押すのだと思います。
なので私は広島に行く度に、自分との繋がりを探すようにしていました。
自分の中に広島がないか、自分の中にウクライナがないか、そして自分の中にロシアはないか。
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私のもう一人の祖母は、若い頃一時期広島に住んでいたらしいのです。
その後北九州に移ったので、祖母が広島にいた事が話題に上る事は殆どありませんでした。でも、祖母の知り合いの誰かは、被爆した筈です。またもし長崎でなく小倉に原爆が落とされていたのなら、祖母の生命にも何か起きていたのかも知れません。
… なんて事を無理にでも考えようとしています。
私には兄弟がいますが、父の空襲体験についても、兄弟が気にしている様子は全くありません。父の人生には間違いなく影響を及ぼした重大な出来事でしょうが、子供の我々は全く無視して生きていけます。
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こんな話を誰かにしようとしても、難しいところまで来ました。
平和の話ですら相手の顔色をうかがわないと出来ない時代です。また私の家族の体験は、あなたとの間に下手に境界線を引きはしないか、と心配になったりします。
広島や沖縄の人は、東京に出てくるとそうした苦しみを感じると聞きました。
「◯周年」で何かやるのを馬鹿らしい、とも思ってきましたが、「◯周年」でも無いと、何も考えない弱い人間です。