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【滋賀・近江の先人第120回】滋賀県初の第75代内閣総理大臣・宇野宗佑(守山市)

 宇野 宗佑(うの そうすけ)、1922年(大正11年) - 1998年(平成10年)は、政治家。滋賀県初の総理大臣。守山市出身。



ヒストリー
青少年期
1922年(大正11年)8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に、宇野長司(守山市長宇野正蔵の子)と民子の長男として生まれる。
家は造り酒屋「酒長(あらちょう)」。
宇野の生家は地元の町年寄を務め、祖父・正蔵は守山町長を2期務めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父・宇野豊蔵は、教科書出版社・実教出版の元名誉会長だった。

1929年(昭和4年)に旧制・吉身尋常小学校(現在の守山市立吉身小学校)に入学。宇野はこのころから成績が良かった。
1935年(昭和10年)に滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)に入学。
1940年(昭和15年)に彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた。
宇野は外交官を目指して、1943年(昭和18年)10月に旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学。
しかし、2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て、復学せずそのまま中退した。

シベリア抑留
1943年(昭和18年)2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。
宇野は主計試験を受けたが、当初は成績が悪かった。三重の津連隊に一時分遣後、5か月間、満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。
1945年(昭和20年)の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。
ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから宇野は2年間ソ連に抑留された。
1947年(昭和22年)7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。
1948年(昭和23年)11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(ロシア語: Домой Токио, 「故郷・東京に(帰る)」の意)を出版。
1949年(昭和24年)2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪・廣瀬千代と結婚。

初期の政治活動
1951年(昭和26年)4月に、滋賀県議会議員(野洲郡選挙区)で初当選した。
最年少で守山町から二番目(最初は祖父・正蔵)の当選だった。
宇野は最初に自由党に入党したが、民主党の森幸太郎が知事になると民主党に入った。
1955年(昭和30年)にトップ当選で二期当選し、5月21日に県議会副議長に就任した。
1956年(昭和31年)3月24日に県会選出の教育委員となった。
1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で自由民主党の候補として初出馬するが落選。選挙後、河野一郎に師事することが認められ、単身上京して河野の議員秘書となった。
1960年(昭和35年)の衆院選挙で再び出馬した。
宇野は社会党の西村関一についで二番目の得票で当選した。当選後、11月25日に自民党に入党した。
1961年(昭和36年)に自由民主党青年局部長となった。
日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の竹下登と共にインド・パキスタンや東南アジアを歴訪して青年海外協力隊発足に尽力した。
1966年(昭和41年)8月1日に第1次佐藤内閣第2次改造内閣・第3次改造内閣で三木武夫通商産業大臣の下で通産政務次官に就任した。
1967年(昭和42年)の選挙では初のトップ当選を果たした。
1968年(昭和43年)に河野派を引き継いでいた森清の死後、森派から中曽根派に合流し、若手議員らと佐藤栄作首相の再選に抵抗した。

閣僚として
1974年(昭和49年)11月に第2次田中角栄内閣第2次改造内閣で、防衛庁長官として初入閣した。
1974年(昭和49年)12月に田中角栄に代わり、三木武夫が自由民主党総裁に就任すると、自民党国会対策委員長に就任した。
まもなくロッキード事件が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった。
1976年(昭和51年)に福田赳夫内閣で科学技術庁長官に就任した。
1978年(昭和53年)12月7日に自民党広報委員長に就任した。
1979年(昭和54年)に第2次大平内閣で行政管理庁長官に就任した。
1982年(昭和57年)の自由民主党総裁選で、出馬した中曽根康弘の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、自民党幹事長代理に就任、6月に山中貞則が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。
1987年(昭和62年)に竹下内閣で外務大臣に就任した。

宇野内閣
リクルート事件発覚と消費税導入により支持率が急落した竹下登首相が、1989年(平成元年)4月25日に辞意を表明した。しかし、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄ら自民党の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、河本敏夫は三光汽船経営危機問題から敬遠され、さらに伊東正義や田村元、坂田道太、後藤田正晴からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。

そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、サミットが近かったこともあり外相であった宇野に白羽の矢が立ち、宇野が急遽後継総裁に擁立されることになった(竹下裁定)。
6月2日、宇野外相は自民党両院議員総会で全会一致にできずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。

1989年(平成元年)6月3日、宇野内閣が発足。
党三役の経験も無く知名度が低かった宇野だけに、就任当初はメディアで宇野について紹介する特集が組まれたこともあった。
閣内にはリクルート事件と関係の薄い人物を優先的に登用し、クリーンな内閣というイメージを作ろうと奔走する。

しかし、この急造内閣も宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなる。
宇野が首相に就任した3日後に、『サンデー毎日』(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発を掲載し、宇野の女性スキャンダルが表面化。初めは国内の他のマスコミは無視したが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントンポスト紙)等と掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。

1989年(平成元年)7月の第15回参議院議員通常選挙は、従来の3点セット(リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆるマドンナブームがとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなる。
翌日、宇野は敗北の責任をとり退陣を表明。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。

退陣後
その後自民党最高顧問に就任したが、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に立候補せず政界から引退した。

1998年(平成10年)2月から体調不良となって通院を繰り返し、5月18日に滋賀県立成人病センターに入院。
翌5月19日午前11時4分死去。75歳没。死因は肺がんであったが、怖がりの本人には知らされなかった。

エピソード
政策通で小説や歴史書もよく著し、著書は10冊以上に上る。俳句を嗜み俳号は犂子(れいし)、句集も残す。ピアノ、ハーモニカ、絵画などの技も素人離れした才人であった。剣道や馬術で身体を鍛え、剣道は高商時代に全国優勝し5段を有していた。
初登院の日に詠んだ句は「枯園に 総理乗用車 呼ぶ声す」。

総理就任時にはピアノ演奏を披露し、趣味の広さや遊び心が好意的に報道された。またハーモニカの達人でもあり、閣僚時代にもしばしば、各国との晩餐会などでハーモニカの即興演奏をし喝采を浴びている。

略歴
1922年(大正11年)8月27日 - 滋賀県野洲郡守山町(現在の守山市)に生まれる。
1943年(昭和18年) - 大学在学中に学徒出陣となり、2年間のシベリア抑留を経験する。帰国後、滋賀県議会議員、河野一郎秘書
1960年(昭和35年) - 衆議院議員(自民党・河野派)
1961年(昭和36年) - 自民党青年局部長(局長・竹下登) 東南アジアを歴訪。青年海外協力隊発足に尽力する。
1974年(昭和49年)11月11日〜12月9日 - 防衛庁長官(第2次田中角栄内閣)
1976年(昭和51年)12月24日〜1977年(昭和52年)11月28日 - 科学技術庁長官・原子力委員会委員長(福田赳夫内閣)
1979年(昭和54年)11月9日〜1980年(昭和55年)7月17日 - 行政管理庁長官(第2次大平内閣)
1983年(昭和58年)6月10日〜1983年(昭和58年)12月27日 - 通商産業大臣(第1次中曽根内閣)
1987年(昭和62年)11月6日〜1989年(平成元年)6月3日 - 外務大臣(竹下内閣)
1989年(平成元年)6月2日〜8月8日 - 第13代自由民主党総裁
1989年(平成元年)6月3日〜8月10日 - 第75代内閣総理大臣

6月 - 女性スキャンダル発覚
7月14日〜16日 - アルシュ・サミットに出席
7月24日 - 参議院選で惨敗(33議席減)し引責辞任を表明。表明時、心境を「明鏡止水」と表現した。

1994年(平成6年)4月 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。
1996年(平成8年)6月 - 政界引退を表明。10月、政界引退。
1998年(平成10年)5月19日 - 肺癌のため75歳で死去。

<Wikipedia引用>

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