矢尾喜兵衛(初代)、1711年(正徳元年)-1784年(天明4年)、江戸時代中期の近江商人。
矢尾喜兵衛は、近江国蒲生郡中在寺村(滋賀県日野町)の農業、大橋利兵衛の二男。
1725年(享保10年)14歳の時、日野栗屋町の富商「矢野新右衛門」の出店である武蔵国秩父郡野上村現埼玉県長瀞町)の日野屋矢野五郎右衛門店に奉公した。15年の奉公生活を経て支配人に昇格した。
寛延2(1749)年39歳の時、主家を辞し別家して「矢尾」と称した。改名は、主家矢野の1字を貰い、尾は山鳥の尾がしたたるの如く、長く家運が続き、主家の恩義を忘れないとの考えに基づくものだという。
喜兵衛は、秩父大宮(秩父市)に舛屋利兵衛の店名で酒造業(現秩父錦)と万卸小売業(太物、米塩、大豆、茶、たばこ等、あらゆる日用雑貨)(現矢尾百貨店)を主家との乗合商いの形態で開店した。麻・綿織物商、質屋も兼業した。矢尾家は、乗合商いという合資形態の店を、関東地方に判明しているだけでも通算16店展開したと言う。
矢尾喜兵衛は、39歳で創業し、商売の基盤が固まった50歳で嫁を娶った。その後は支配人を秩父に置き、国許の近江日野に居住し、毎年店務監督のため下向した。
終始主恩と奉公人の労苦を忘れず、自らを厳しく律し、どんな物品も粗末にせず、効用を使い尽くすことに努め、質素篤実に徹した生涯を送った。
矢尾喜兵衛は一括千金のやり方ではなく、こつこつと細かい儲けをはじき出す商法(牛のよだれ商法)で代を築いた典型的な近江商人であった。
美談として、商売が繁盛につれ、益々主家への恩義を感じ、1774年(安永3年)から凡そ100年間(江戸時代の終わり頃まで)にわたって毎年100両を主家に納め恩義の意を表したと伝えられる。
近江の日野商人矢尾喜兵衛の「舛屋利兵衛」は創業以来、約300年を経て、現在も埼玉県秩父市において、矢尾本店(酒造業)と矢尾百貨店(デパート)として存続している。