小谷新右衛門、生没年不明。 仙台で薬業で富豪。近江日野商人。
1812年(文化9年)に、日野の小谷庄三郎の支店として、仙台国分町で薬商を開店した。近江日野商人は薬の販売を柱にしたが、特に1714年(正徳4年)に豪商「正野玄三」により、「万病感応丸」が発売され、このヒット商品を近江日野商人により広めた。
この「小谷新右衛門」の出店は中井源三郎(近江日野出身で日野商人を代表する豪商で仙台城下最大の豪商)始め近江商人の中では仙台藩への進出は遅い方だった。
しかし、進出後の発展はめざましく、24年後の1836年(天保7年)には仙台城下でも有数の豪商になっていた。
1855年(安政2年)には中井新三郎、岩井作兵衛、佐藤助五郎らと共に仙台藩の蔵元になっていた。
短期での成長は他の豪商は呉服、木綿、古着を扱っていたが、小谷家は「薬と瀬戸物」などに集中したからだと言われる。敢えて激戦商売に手を出さなかったことが成功の基だった。
当時、仙台薬物商でトップだった「大和屋久四郎」の衰退の兆しもあり、小谷躍進の好材料となった。情勢を判断し、長期的な視野にたって商材の選択をしたのが小谷家の急成長の秘訣だったと言える。
小谷新右衛門家は明治以降も仙台市国分町で薬や陶磁器の販売を行っていたという。
しかし、その後の動向については筆者は掴めていない。
<仙台史から引用>