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【滋賀・近江の先人第31回】近江出身の大儒学者/近江聖人・中江藤樹(高島市)

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年(慶長13年) - 1648年(慶安元年))は諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。
近江国安曇川(滋賀県高島市)出身の江戸時代初期の陽明学者(儒学者)近江聖人と称えられた。
 
中江藤樹の名前は誰しも一度は日本史の歴史上の人物の一人として学んだことがあるだろう。
私もその一人で「陽明学」の祖程度の理解で近江の人だったことにことさら興味を示さなかった。
よくよく知るにつけ、藤樹は後年、「藤樹書院」にて身分に関係なく教えた様は幕末期の吉田松陰の「松下村塾」(安政3(1856)年)に似ている。「藤樹書院」は1634年(寛永11年)のことだから200年以上も早かったのだ。
 
 
ヒストリー
1608年(慶長13年)、近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)に、農業の中江吉次の長男として生まれる。
名は原(げん)、字は惟命(これなが)、号は嘸軒または顧軒、通称は与右衞門(よえもん)、幼名は原蔵(げんぞう)。
藤樹とは号でなく、屋敷に生えていた藤の老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来する。
1617年(元和2年)9歳の時、米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行く。
1618年(元和3年)10歳、藩主の国替えに伴い、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住む。
1622年(元和8年)15歳、祖父の死去により、100石取りの武士を相続する。
1624年17歳、独学で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒が次第に陽明学の影響を受け、格物致知論(古代中国における思想史上の術語)を究明するようになる。
1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京都に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現滋賀県高島市)で、私塾を「藤樹書院」を開く。
居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、大洲からやってきた藩士や近郷の人々に《孔孟の学》や《陰隲》を教導する。
1637年(寛永14年)、伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。
1640年33歳、『王龍渓語録』を読み、
1644年37歳、『王陽明全書』を入手する。
1646年(正保3年)妻・久が死去。
1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。
1648年(慶安元年)藤樹が41歳で亡くなる半年前に藤樹書院を新築した。
その説く所は「身分の上下をこえた平等思想」に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた。
代表的な門人として、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいるが、とりわけ藤樹没後における熊沢蕃山の事績によって、藤樹の名声を一段と高めたことは注目に値する。
 
墓所は滋賀県高島市「玉林寺」。
 
(Wikipedia引用)
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