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【滋賀・近江の先人第29回】近江商人夫人としての女子教育の淡海高等女学校創設者・塚本さと(東近江市)

 塚本 さと(つかもと さと、天保14年(1843年) - 昭和3年(1928年)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人初代塚本源三郎の妻。

 塚本さとは、天保14年(1843年)に近江国神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門定悦(江戸時代後期の近江商人、屋号は「紅屋」総合繊維商社ツカモトコーポレーションの創業家)の五女として誕生した。

 塚本さとが数え21歳の時、1853年(嘉永6年)に、店の奉公人であった源三を婿に迎え、「塚本源三郎家」を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた。
さとは、「読み、書き、算盤」を川島俊蔵の寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた。
『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった。

明治23年(1890年)47歳の時、息子の妻のために、年中行事・総菜の作り方・家事の心得、家具・衣類の手入方法を記した『姑の餞別』という家政手引き書をまとめ、商家の嫁の手本書を書いた。

塚本さとは、
幼少から学を好み、和歌に長じ、手芸・裁縫に堪能で、公共慈善の志が篤かった。南五個荘村川並の川島右衛門俊蔵の寺子屋で8歳から15歳まで読書・習字・算術を習得し、15歳から21歳まで家庭にて裁縫・生け花・茶道など女子手芸一般の修業に励んだ。
明治20年頃から和歌を学び始め、東京、京都の名士(棚橋絢子、河口愛子、岡野敬次郎、岡田武松、荒木寅三郎、野上俊夫、志田順、大島徹水)との親交から女子教育の重要性に目覚めた。

大正5年(1916年)に夫源三(初代塚本源三郎)が死去した後、
大正8年(1919年)4月数え77歳の時に名士からの後援を得て、私費を投じて神崎郡北五個荘村竜田(現東近江市五個荘竜田町)に、
淡海女子実務学校』(たんかいじょしじつむがっこう)を設立し、校長に就任した。
同学校は『近江商人の主婦として温良貞淑で家庭の実際に適応する堅実な女子を養成する』ことを目的とし、顧問に杉浦重剛(教育家で、校名の名付け親)・下田歌子(歌人・東京実践女学校長)・嘉悦孝子(東京女子商業学校長)を招き、小杉右衛門邸を仮校舎に開校した。



大正14年(1925年)4月には周辺の近江商人の支援を受け、指導を受けた下田歌子をが校長に迎え、校名を『淡海実践女学校』に改め、翌年大正15年(1926年)には『淡海高等女学校』に昇格し、旧神崎商業校舎に移転した。
女学生から「おばあさま」と親しまれ、郷土の女子教育に尽くした立派な人生だった。晩年、さとは学校経営が盤石を見届け、昭和3年(1928年)86歳で没した。
「なにひとつ思ひおくことなかりけり わが行先は弥陀に任せて」の歌を残して。

沿革
大正8年(1919年)、淡海女子実務学校を設立
大正14年(1925年)、淡海実践女学校に改名
大正15年(1926年)、淡海高等女学校に昇格
昭和25年(1950年)、淡海高等家政学校を設置
昭和51(1976年)、淡海女子専門学校と改称
昭和60年(1985年)、淡海書道文化専門学校と校名を改称

因みに、近江女性の教育人では、次を思い出す。
塚本さと、天保14年(1843年) - 昭和3年(1928年)95歳没。淡海女子実務学校創立。
伊藤八重、嘉永2年(1849年)- 昭和27年(1952年)103歳没。伊藤忠兵衛の妻。伊藤忠兵衛商店の新入店員の教育。
一柳満喜子、明治17年(1884年)ー 昭和44年(1969年)85歳没。近江兄弟社学園創立。
森はな、明治44年(1911年)- 平成26年(2014年)103歳没。滋賀学園・びわこ学院大学創立。

【滋賀・近江の先人第11回】小町紅の行商から甲府を拠点に身を興す塚本家本家・塚本定右衛門(東近江市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/d/20190501/3

<「塚本さとの生涯」等引用>

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