一の台(いちのだい、永禄5年(1562年) - 文禄4年8月2日(1595年))は、安土桃山時代の女性で、豊臣秀次の妻。父は右大臣/大納言・今出川(菊亭)晴季。京都生まれと思われる。
ヒストリー
はじめは三条顕実に嫁ぐが、娘おみや(のちのお美屋御前)をもうけると直ぐに顕実は死去した。池田家から若政所は天正11年に輿入れして豊臣秀次の正室なっていたが、未亡人となっていた「一の台」を父・晴季によって近江八幡城主豊臣秀次の正室とて嫁がせた。
三条晴季は、織田信長の後継者となった秀吉を近衛氏の養嗣子にし、関白職に就けた功労者の一人だった。そして、関白となった秀吉のもとに、娘の一の台を側室として差し出した。一の台は三条顕実(あきさね)に嫁いだが、おみやという娘を産んで、未亡人となっていたからだとある。
一方、他説として、父菊亭晴季は、織田信長の後継者となった豊臣秀吉を近衛氏の養嗣子にし、関白職に就けた功労者の一人だった。
そして、関白となった秀吉のもとに、娘の「一の台」を側室として差し出した。一の台は三条顕実(あきさね)に嫁いだが、おみやという娘を産んで未亡人となっていたからだ。
ところが、側室になって暫くして「一の台」は病気となり、秀吉のもとを去る。実家で治療に専念していた「一の台」の病気が癒えると、晴季は、秀吉から関白職を移譲され、京都聚楽第で暮らす豊臣秀次のもとに「一の台」を出仕させた。
「一の台」は、とても美しい気品に溢れた女だったため、3歳年上だったが、秀次は直ぐに気に入った。
この時、秀次には池田輝政の妹の「若御前」(わかごぜん)という正室がいたが、「一の台」を御台所(みだいどころ=正室)とした。所謂二人正室である、「一の台」連れ子の13歳の「おみや」も美しかったので、側室として、母娘を寵愛する。
「一の台」とは、
「一の御台所」の意味で正室をさす。一の台が嫁いだ頃、秀次正室の若政所(池田輝政の妹)はまだ存命していたという説もあるため、秀次は二人の正室をもっていたことになる。若政所と一の台は、若い方の正室と、一番の正室という意味のようである。
但し、若政所という呼称は父が関白である九条道房の正室・廉貞院などにも使用例がみられ、字義的には「北政所より若い政所」とも取れる。
文禄4年(1595年)、夫の秀次が豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられ自害し、それに連座して8月2日に「一の台」も斬首された。
最も寵愛を受けていた「一の台」は、前大納言・菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。享年34。戒名は徳法院殿誓威大姉。結局、秀次の幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名の全員が斬首された。
父の晴季は豊臣政権と密接な関係を築いて朝廷内で重きをなしていたが、関白・豊臣秀次に娘の「一の台」を嫁がせていたため、文禄4年(1595年)8月に秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自害を命じられ、一の台をはじめとする秀次の一族妻妾が処刑されると、晴季もこれに連座して越後国に流罪となった。
慶長元年(1596年)、赦されて帰京し、秀吉の死後慶長3年(1599年)には右大臣に還補、慶長8年(1603年)正月に辞すまでその職に在った。元和3年(1617年)、死去。享年79。
人物
当初、豊臣秀吉の側室となるはずであったが「一の台」が拒んだために秀次が自害させられたともいわれている。
絵本太閤記』によれば秀次は美貌の一の台を是非にと妻としたが、その連れ子である13歳のおみやも美しかったので、これも側室として母娘共に寵愛していたと聞いた秀吉が、子供まで犯すとは人にあるまじき畜生にも劣る所業であると忌み嫌って、一の台を最初に処刑してその墓を「畜生塚」と名付けたという逸話から、「畜生塚」または「悪逆塚」、転じて「畜生関白」とか言われるようになったとする。
しかしこの話は根拠に乏しい俗説・悪評であり、小和田哲男は於宮が側室であったとは疑問だとして、秀次を大逆非道の人物とする太閤記の脚色の1つが、人々に信じられるようになったに過ぎないとする。
<Wikipedia等引用>