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”スローライフ滋賀” 

【身近な昔探訪】第237回・46年間東近江市東中野町にあった八日市南小学校

 八日市南小学校は昭和35年(1960年)、八日市小学校(元八日市市役所、現八日市図書館)と中野小学校が統合されて発足した。

 しかし、昭和39年(1964年)、東近江市東中野町に統合新校舎が出来るまでの4年間、八日市校舎と中野校舎にセパレートしたまま授業を続けた。
 その後、統合後の八日市南小学校は児童数拡大や校舎の老朽化もあり再度、見直しが行われ、平成22年(2020年)に八日市南小学校は八日市南小学校と箕作小学校にセパレートした。

 
      ↑現在の八日市南小学校(東近江市沖野)

 新しい八日市南小学校は東近江市沖野の新校舎に移転し、旧八日市南小学校跡は、現在「中野むくのき幼稚園」と「東近江市保健センター」になっている。

↑↓旧八日市南小学校跡の現「中野むくのき幼稚園」と「東近江市保健センター
 

 東近江市東中野町の旧八日市南小学校校舎は昭和39年(1964年)に新校舎が東近江市沖野に移転する平成22年(2010年)まで半世紀近くの46年間この地にあった。
 因みに筆者は八日市南小学校の第1回卒業生の一人である。

沿革
■昭和35年(1960年)
八日市南小学校の変遷:旧八日市小学校と中野小学校が統合
八日市南小学校は、八日市南小学校八日市校舎と八日市南小学校中野校舎で発足。
■昭和39年(1964年)
東近江市東中野町に八日市南小学校統合新校舎完成
■平成22年(2020年)
東近江市沖野の新校舎に移転。この時、八日市南小学校のエリアは分割され、箕作小学校と八日市南小学校になる。

東近江市東中野町の旧八日市南小学校は、その跡地は、2018年に「中野むくのき幼稚園」と「東近江市保健センター」になっている。

 
 
 
 

コメント一覧

Unknown
初代滋賀朝鮮初級学校の校舎は、元は、第三飛行連隊?玉緒小学校?
初代滋賀朝鮮初級学校の校舎は、元は、第三飛行連隊?玉緒小学校?

私のかすかな記憶の中に、八日市の「玉緒小学校」の校舎が移築されて滋賀県朝鮮学校の校舎になったという記事を読んだ記憶があります。

ところが、

「始まりのウリハッキョ編 vol.60  続・滋賀朝鮮初級学校」というページでは

「民族の誇りを伝えて 聞き書き湖国私史 李圭台」(朝日新聞滋賀版/1980年8月26~30日に連載)を元資料として

====================
校舎は新築だと費用がかかるため、八日市の旧陸軍第三飛行連隊の司令部を払い下げてもらった。運搬は高島市新旭の同胞業者が行ったという。
====================

という記述があります。


Wikipediaの滋賀朝鮮初級学校によると、1962年12月 - 現在地に新校舎建設、移転。とあります。そうすると、終戦後17年を経ています。解体移築期間などを考えると15年経った1960年ぐらいに事業は始まっていると思います。

そうすると、司令部建物が無人無住であれば15年は老朽化をもたらすのに十分な期間だと思います。他の用途に転用されていたとすれば、その立ち退きなどに困難が予想されます。他に移築転用された例は知っています。飛行隊の管制塔(3階?建ての多角形の塔)が、現在の井田歯科本院の前に移築されて、確か、リッカーミシンの営業所として活用されていました。ただ、学校にも使える大きな建物ならば管制塔移築のようには行かなかったと思います。

一方、玉緒小学校のHPによれば

昭和29年 6月 6日 (1954年) 改築第1期工事(南校舎)竣工
昭和30年10月12日 (1955年) 改築第2期工事(本館)竣工

とあり、当時の学校建築がどのような工程で行われたか不案内ですが、プレハブの仮設校舎などは考えられす、元の校舎を残して、そこで教育をしながら、完成して新校舎で学び始めてから、解体を始めたと思います。もし、そうならば玉緒小学校の旧校舎が移築された可能性も高まります。なにより、元々学校なのですから、教室が並ぶ建物であり、滋賀朝鮮初級学校としても移築のメリットが大きかったと思います。

ただ、司令部建物も玉緒小学校の旧校舎も両方とも移築されたという可能性も大きいと思います。なお、玉緒小学校のHPでは、改築とされていますが、一部改良ではなく、建て直しのことを改築としているのだと個人的には考えています。

さて、どこでこれらの情報を深めていけるかというと、国の資産管理関係(財務省? 防衛省? 防衛施設庁?)、
東近江市役所、東近江市教育委員会、滋賀県平和祈念館、新旭の業者などが考えられますが、東近江市在住の郷土史家、中島伸男氏(野々宮神社宮司)が詳しいか、詳しくなくとも調べる伝手をお持ちだと思います。

八日市には飛行場の拡張工事などで朝鮮系の人々が用いられたとも聞きますので、在留者も多く、小学校にも朝鮮学級があり、その中には後年朝鮮学校の教員になられた方や、全く逆にたぶん朝鮮学級には加わならなかったかもしれませんが、韓青同で活動された方もいます。

なお、玉緒小学校と第三飛行連隊の司令部との距離は3kmほどだと思います。

ということで、朝日新聞滋賀版連載記事はそれなりに検証された資料だと思いますが、私のかすかな見聞の記憶と少々の齟齬を感じましたので、書いておきます。
Unknown
朝鮮学級のこと
朝鮮学級のこと

八日市飛行場の拡張などの工事に朝鮮系の人々が動員されたとも聞きますので、そのためか、朝鮮系の人々が多く在留されていました。

「朝鮮人部落」(今では差別表現に当たるかもしれませんので、カッコ付きにしました)という呼び方もありましたが、八日市地域では戦後に在留者が大きな集団を形成することはなかったのではないかと思います。今の地名表示でいうと東沖野の一部とか、栄町の一部など、各所に2-3軒の集住があったと思いますが、元からの地域住民の中に1軒だけ特に違和感なく住まわれていた例も知っています。

そこで、そういう朝鮮系在留住民の子弟のため、南小学校には「朝鮮学級」がありました。そこに通う児童は普通の日本の小学校の授業を終えてからの放課後に通いました。だからランドセルには日本の教科書の他にハングルで書かれた教科書もあって、見せてもらったこともありました。

野々宮神社前の八日市小学校(八日市南小学校)にもあったはずですし、移転後の南小(現保健センターの場所)の新校舎(逆L字型3階建て校舎で正面が東西で主に偶数学年、西の端に給食関係があり、南に伸びる校舎には主に奇数学年だったと思う)の最初期には南北側の3階の最奥が音楽室でその手前の教室だったように思う。

この朝鮮学級は北朝鮮系だったと思われ、南小の朝鮮学級にいた人の中には後に滋賀県朝鮮学級の教員になった人もいた。反対に朝鮮学級に通ったかどうか不確かだが、全く逆に韓青同で活動した人もいた。

中野校舎や他の市内小学校で朝鮮学級が存在したかどうかは寡聞にして存ぜず。

また、近江八幡の仮設校舎を経て、大津に滋賀朝鮮初級学校が設立されたことなどもあって、朝鮮学級は、ほどなくして消えていったと思われる。

滋賀朝鮮初級学校で検索(URLを記載するとため)
Wikipedia
HP

野々宮神社前の八日市小学校(南小学校)
どこにあったか記憶が曖昧。2階の視聴覚室や資料室(ホルマリン漬けのびっくりするようなものもあった)の隣か、1階の一番古い棟の図工室(粘土溜があった)前の北に伸びる廊下の先か、元青年学級校舎へ続く廊下だったか記憶が絞り込めない。
Unknown
現地建て替えでは
現地建て替えでは国からの補助金が・・・。かくして中心部から学校は消えた。
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