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「天王寺跡」「蓮華院跡」「建善寺跡」…琉球王国時代の臨済宗の寺院跡

2014-03-18 | 文化

 「天王寺井戸」は、天王寺の井戸ですが、当蔵村の「村ガー」として、人々の生活用水にも利用されていました。首里公民館近くにあります。

01-0227天王寺井戸

02-0308天王寺井戸

「天王寺井戸(テンノージガー)…首里三ケ寺のひとつである天王寺の井戸。 天王寺創建時、寺域に井戸がなかったため、この井戸を使い始めたのが始まりとされている。 大きなガジュマルの木が目印で、井戸は丸い筒型になっている。当蔵村の『村ガー』(共同井戸)として人々の生活用水にも利用され、旧暦9月9日『重陽の日』には、当蔵自治会によって健康や繁栄が祈願される。 天王寺敷地は、龍潭通りを渡った首里教会付近にあたり、首里教会入り口と隣接する民家の後方に天王寺の石垣が残されている。 NPO法人 首里まちづくり研究会」

03-0308 天王寺井戸

04-0308 天王寺井戸

 「天王寺」は、「円覚寺」「天界寺」とともに首里三カ寺と称され、尚家菩提寺の一つでした。天王寺跡は、「龍潭通り」の「首里公民館」の向かい側にあり、敷地の一部は、「日本キリスト教団首里教会」となっています。

05-0309 天王寺跡

06-0309 天王寺跡

07-0309 天王寺跡

08-0309 天王寺跡

「天王寺跡(テンノウジアト)…琉球王国時代の臨済宗(りんざいしゅう)の寺院跡。 第二尚氏王統の始祖尚円(しょうえん)が成化年間(1465~1487)に創建したといわれ、尚円が王位につく前の邸宅で、第三第国王尚真(しょうしん)の生誕地とされる。後に国王は円覚寺、王妃は天王寺、未婚の王子・王妃は天界寺に祀られたことから、円覚寺(えんかくじ)・天界寺(てんかいじ)とともに三カ寺と称される尚家菩提寺(ぼだいじ)の一つとなり、国王の元服・即位の際には三カ寺を行幸するのが例となった。寺域は700坪近くあり、建善寺(けんぜんじ)・広徳寺(こうとくじ)・蓮華院(れんげいん)などの末寺があった。 1879年(明治12)の琉球処分後は尚家の私寺となったが、その後払い下げられ、仏像・神位(位牌)・梵鐘などは円覚寺へ移され、本殿である方丈殿(ほうじょうでん)は1903年(明治36)に開校した女子実業補修学校(後の島尻女史工業徒弟学校)の校舎として島尻郡小禄間切(しまじりぐんろくまぎり、現那覇市)に移築された。1933年(昭和8)寺域の西半分(341坪)を日本メソジスト首里教会が購入し、会堂を建立した。沖縄戦(1945年)の後は日本基督教団首里教会として現在に至っている。 現在首里教会入口と隣接する民家の後方に天王寺の石垣が残されている。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

09-0308 首里汀良町の獅子舞

10-0308 首里汀良町の獅子舞

 

11-首里汀良町の獅子舞(131103 首里文化祭)

12-首里汀良町の獅子舞(131103 首里文化祭)

「首里汀良町の獅子舞 那覇市指定無形民俗文化財 昭和62年8月10日指定…もとは旧暦の八月十五夜にここアスイ森嶽(ムイダキ)の境内で、村の厄払いと百姓達の親睦の目的で催された。現在はその十五夜の前後に日を選んで町民全体の行事として行われる。糸芭蕉の繊維でつくられたぬいぐるみをまとい、頭と前足、尻尾と後足の計二人で演じられる。県内の他の獅子舞がユーモラスであるのに対し、首里汀良町のものは凄みのある勇猛な獅子舞である。 那覇市教育委員会」

 「新井戸」は、汀志良次村(現・首里汀良町)の村ガーで、戦前は「豆腐水」として重宝されていました。現在でも水量は豊富です。

13-0308 新井戸

14-0308 新井戸

「新井戸(ミーガー)…汀志良次村(現・首里汀良町)の村ガー(共同井戸)。「ティシラジミーガー」とも呼ばれ、箱形の形状をしている。言い伝えによると、防火用水を得るために王府の費用で掘られたもので、10人でも一度に水を汲み出せるよう、大きくつられたといわれる。見事な石積みや「新」とつくことから、比較的新しい井戸だと考えられる。井戸は深く、戦前は水の清らかさと水量の豊富さで「トーフミジ(豆腐水)」として重宝されており、現在でも水量は豊富である。井戸手前の石積みは、戦後安全のために積まれたものである。 NPO法人 首里まちづくり研究会」

15-0308 真嘉比川

 「蓮小堀」は、首里城の北東にあった人口の池で、戦後、琉球大学敷地造成のため、埋められました。「蓮華院」は、琉球王国時代の臨済宗の寺院で、天王寺の末寺です。1907年頃、現在の糸満市に移転しました。

16-0227 蓮小堀・蓮華院跡

17-0227 蓮小堀・蓮華院跡

「蓮小堀・蓮華院跡(リングムイ・レンゲインアト)…蓮小堀(リングムイ)は首里城の北東に位置する人口の池。尚巴志(しょぅはし)王代(1422~1439年)首里城整備のため土を掘り出した跡が池になったとされ、蓮(はす)に覆われていたことから名付けられた。池の広さは約2,000坪あったといい、約800坪の半島が池中に突き出ていた。沖縄戦(1945年)の跡も蓮小堀は残っていたが、1958年(昭和33)琉球大学グランド造成のため円覚寺(えんかくじ)裏山が削られた際、その土砂で埋められた。その後一帯はバスターミナル、次いで図書館などの公的施設が建設された。 蓮華院(れんげいん)は琉球王国時代の臨済宗(りんざいしゅう)の寺院で、天王寺(てんのうじ)の末寺。万歴(ばんれき)年間(1589~1619年)の創建とされる(創建時の所在地不明)。当初岩頂山万松院(がんちょうざんばんしょういん)と称したが、18世紀頃までには「蓮小堀」の半島に移設されたと思われ、後に妙法山(みょうほうざん)蓮華院と改められた。1907年(明治40)頃糸満村(現糸満市)に移転、敷地は個人の別荘となった。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

 「建善寺」は、琉球王国時代の臨済宗の寺院でした。

18-0308 建善寺跡

19-0308 建善寺跡

「建善寺跡(ケンゼンジアト)…琉球王国時代の臨済宗(りんざいしゅう)の寺院跡。山号は霊芝山(れいしざん)。天王寺の末寺。景泰(けいたい)年間(1450~1456年)第一尚氏尚泰久(しょうたいきゅう)王の創建とされる。1609年の薩摩(さつま)侵攻後は廃寺となったが、1619年金武王子尚久(きんおうじしょうきゅう)により再興され、一時金武家の菩提寺(ぼだいじ)となった。寺は当初首里崎山(しゅりさきやま)村にあったが、再興時に現在地に移転したとされる。 寺域は800坪余あり、寺後方の丘陵斜面を利用した見事な庭園があったという。昭和初期、個人に払い下げられた。現在寺の入口の石段と良質な水で知られた井戸が残る。 設置2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

20-0308 建善寺跡

21-0308 龍潭通り


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