宮森小学校のジェット機墜落事故から56年目を迎えました。
01 校門
02 校舎
03 校章
うるま市立宮森小学校_jp-(http://miyamori-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/)
所用のため、「追悼慰霊祭」等には間に合いませんでしたが、午後3時頃、宮森小学校を訪ね、仲よし地蔵に献花し、手を合わせました。事故で亡くなった伊波君(当時6年生)は、小学校3年の同級生です。
04 折り鶴
05 仲よし地蔵
事故当時、私は城前小学校6年生で、「ミルク給食」の時間でした。廊下にいた児童が、「落ちる、落ちる」と叫んでいる中、ものすごい爆発音がし、隣の宮森小学校方面から、原爆を連想させる火煙が立ち上っているのが見えました。宮森小学校にジェット機が墜落したのです。
06 平和の鐘の塔
07 校内の花
以下は、「事故の概要…NPO法人 石川・宮森630会」「事故伝え続ける、宮森小ジェット機墜落、56年目の追悼慰霊祭…沖縄タイムス+プラス_php」「宮森の惨状語り継ぐ 米軍機墜落から56年 - 琉球新報 -」の引用です。
事故の概要…NPO法人 石川・宮森630会(http://ishikawamiyamori630kai.cloud-line.com/gaiyou/)
1959年6月30日午前10時40分頃、カデナ基地所属のF100ジェット戦闘機(ジョン・シュミッツ機長)が離陸後時速463キロ、高度約300 メートルに達した時、エンジン火災と危険を知らせる警告ランプが点灯。
搭載していた25ポンド爆弾四発を南西の海に投棄し、カデナ基地に引き返そうとしたがエンジンが爆発したのでパイロットは脱出し、機体は石川市6区5班・8班(現うるま市石川松島区)に墜落し、その衝撃で撥ね上がり、付近の家々を引きずるようにしながら北西の方向約150m先、2時間目が終了した後のミルク給食中の宮森小学校に激突、炎上しました。
この事故により、宮森小学校の生徒が11名(後に後遺症で1名が2歳で死亡)、地域住民が6名死亡しました。
重軽傷者も220名に達し、住宅27戸、公民館1棟、校舎3教室を全焼。住宅8戸、校舎2教室を半焼させる大惨事となりました。
当初、事故はエンジントラブルであり、不可抗力であったと説明されました。(夏空の雷が思いがけない落雷したようなもので、手のつけようがなかったことを、特に察知してほしい - 空軍司令官スミス少将 1959年7月3日 琉球新報)
ところが、事故から40年後にQAB(琉球朝日放送)によって、不可抗力の事故ではなくて、エンジントラブル以前の「整備不良」が原因だったことが米軍資料で明らかにされました。爆弾を四発も搭載していることも県民には隠されていたのです。
「事故伝え続ける」宮森小ジェット機墜落、56年目の追悼慰霊祭 沖縄タイムス+プラス_php(https://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=122110)
【うるま】1959年6月30日に旧石川市の宮森小周辺で起きた米軍ジェット機墜落事故から56年を迎えた30日、同校で追悼慰霊祭(主催・NPO石川・宮森630会、遺族会)があった。遺族や当時の在校生ら約120人が参列し、犠牲者の冥福と平和を祈った。
犠牲者の名前が刻まれた仲よし地蔵には、宮森小の児童らが折った千羽鶴や花束が手向けられた。
事故を語り継ぐNPO石川・宮森630会の久高政治会長は、ことし1月に死去した豊濱光輝前会長の功績に触れ「亡くなった方の無念を受け止め遺族を支えるという豊濱前会長の遺志を引き継ぎ、事故を伝え続ける」とあいさつした。
宮森の惨状語り継ぐ 米軍機墜落から56年 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-245030-storytopic-1.html)
【うるま】1959年6月30日、米空軍嘉手納基地を飛び立ったジェット戦闘機が、石川市(現・うるま市石川)の住宅地と宮森小学校に墜落した事故から30日で56年。事故で児童12人(うち1人は後遺症で死去)と周辺の住民6人が尊い命を落とした。事故機は後に、整備不良の機体だったことが明らかになった。30日、遺族や当時の在校生など関係者が参列する慰霊祭(遺族会、NPO法人石川・宮森630会主催)が午前10時から行われる。 慰霊祭を前に、宮森小学校で児童による追悼集会が開かれる。
「すごい爆音が上空を過ぎた。屋根が崩れ落ちるような耳をつんざく音。自分に落ちてくる感覚だった」。石川地域で巡回教師を務め、宮森小学校米軍ジェット戦闘機墜落事故直後に学校へ走った伊波則雄さん(77)=読谷村。事故を知る遺族や教員が減るなか「もう自分しかいない」と、56年前の惨状を語る。
故豊濱光輝さん(享年79)=前NPO法人石川・宮森630会会長=と、欠員を補充する巡回教員で6月いっぱいの契約だった。事故は、契約最後の日の午前10時40分ごろに起きた。
石川中で1時間目の数学の授業を終えて教育事務所に戻った時、普段は金武湾上空を飛ぶ戦闘機が、その日は違った。「やなジェット機ぐゎー、うてぃれーしみくぁいるむん(憎らしいジェット機め、落ちてしまえばいいのに)と言い終わらないうちに爆音がした」。外には黒い煙。事務所の窓を越えて駆け出した。
通学門の前まで行くと、女性に「お願いします」と、子どもを預けられた。髪の毛が焼け縮れ、肌は青白く、背中にだけ直径10センチほど着物が焼け残っていた子。「手を引いて少し歩いたら『痛いよー、痛いよー』と言うからおぶった。そしたら、お尻の方でビリッという音がするから見てみたら、その子の皮膚が(はがれて)私の服に付いていた」。学校に向かってきた警察官2人も引き取らず、やがて米兵たちがその子を連れて行った。
学校に戻り、バケツで井戸水を運んで消火活動をした。6年4組の担任だった兄・常雄さんは現場を撮っていたカメラを米兵に取られ、フィルムを抜かれた。
後に、米兵に引き渡した子は「息を引き取った」と聞いた。2年生の喜屋武玲子さんだった。
事故後の石川地域は話を鎮めようという雰囲気になった。「賠償問題もあって、人々も貧しく、お金が欲しい時代。基地撤去を言うと叱られる。しゃべるのも怖かった」と思い出す。事故の記憶は封印された。
事故から56年―。「今になって新聞を見たら、賠償金も微々たるもの。被害者がどれだけの扱いをされていたか…」と肩を落とす。
5年前、焼香をしに玲子さんの遺族を豊濱さんと訪ねると「33回忌も終わって、思い出したくもないのに、なぜ今ごろテレビや新聞で騒ぎ立てる?」と玲子さんの父に問い詰められた。「こんな大惨事は被害者個人で悲しんでいたら犠牲者が浮かばれない」と言うと「互いに基地がなくなることを願っている。焼香をお願いします」と言われた。
「黙ってきたことを自問自答してきた」。きょう、記憶の継承を誓って、慰霊祭に参列する。(東江亜季子)
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