結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

旭ヶ丘公園(小桜の塔、海鳴りの像、戦没新聞人の碑……)、対馬丸記念館、波上

2014-06-27 | 平和

 那覇市若狭の「旭ヶ丘公園」一帯は、古くから信仰の場として崇められ、景勝地としても親しまれており、「波上宮」「護国寺」「波上ビーチ」などがあります。ここにも沖縄戦の爪痕が残され、「小桜の塔」「海鳴りの像」「戦没新聞人の碑」「殉職警察職員慰霊之碑」などがあります。

 「対馬丸記念館」には、沈没した学童疎開船「対馬丸」関連資料が展示されています。今年は、撃沈後70年の節目の年にあたります。26日、天皇、皇后両陛下が来県され、27日、「小桜の塔」と対馬丸記念館を訪れました。

01-0412 波上宮

03-0412 護国寺

04-0430 旭ヶ丘公園

05-0412 小桜の塔

06-0412 小桜の塔

対馬丸犠牲者の慰霊碑 小桜の塔… 沖縄(おきなわ)で地上戦(ちじょうせん)が始(はじ)まる前年(ぜんねん)、1944年8月21日疎開船対馬丸(そかいせんつしままる)は学童(がくどう)834名(めい)を含(ふく)む疎開者(そかいしゃ)1661名を乗(の)せ、2隻(せき)の僚船(りょうせん)とともに護衛鑑(ごえいかん)2隻(せき)に守(まも)られて、長崎(ながさき)に向(む)けて那覇港(なはこう)を出航(しゅっこう)しました。当時(とうじ)の沖縄(おきなわ)・九州(きゅうしゅう)の間(あいだ)は、敵潜水艦(てきせんすいかん)が出没(しゅつぼつ)する危険(きけん)な海域(かいいき)でした。 翌(よく)8月22日午後(ごご)10時過(じす)ぎ、那覇(なは)の沖合(おきあい)からこの船団(せんだん)を追(お)いかけてきた米潜水艦(べいせんすいかん)ボーフィン号の魚雷攻撃(ぎょらいこうげき)を受(う)け、船団(せんだん)の中(なか)で唯一(ゆいつ)対馬丸(つしままる)だけが撃沈(げきちん)されました。 犠牲者(ぎせいしゃ)は学童(がくどう)780名を含(ふく)む、訓導(くんどう)・世話人(せわにん)、一般疎開者(いっぱんそかいしゃ)、船員(せんいん)、砲兵隊員(ほうへいたいいん)など1500余名(よめい)にのぼりましたが、厳重(げんじゅう)な箝口令(かんこうれい)が敷(し)かれ、戦後数年(せんごすうねん)経(た)つまで詳細(しょうさい)は分(わ)かりませんでした。 小桜の塔(こざくらのとう)は、この対馬丸(つしままる)の犠牲者(ぎせいしゃ)を祀(まつ)った慰霊碑(いれいひ)です。1954年、愛知県(あいちけん)のすずしろ子供会(こどもかい)(会長、かいちょう 河合桂、かわいけい・当時、とうじ)が、沖縄(おきなわ)に子(こ)どものための慰霊碑(いれいひ)を建(た)てようと一円募金(いちえんぼきん)を募(つの)り、愛知県知事(あいちけんちじ)をはじめ同県(どうけん)の大(おお)きな協力(きょうりょく)によって沖縄(おきなわ)に贈(おく)られました。 塔(とう)は船首(せんしゅ)を那覇港(なはこう)に向(む)けたレリーフが正面(しょうめん)にデザインされ、両脇(りょうわき)には犠牲者名(ぎせいしゃめい)が記(しる)された刻銘碑(こくめいひ)が建(た)っています。(慰霊碑、いれいひ・ブロンズの鳩像、はとぞう/デザイン:玉那覇 正吉、たまなは せいきち) ●慰霊碑の立つ丘の向こう側に、「対馬丸記念館」があり、事件の詳細は同館で展示しています。」

08-0430 小桜の塔

11-0430

12-0430

15-0430

「小桜の塔建立について…愛知県丹陽村の『すずしろ子供会』会長河合桂氏は戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和二十八年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河合氏を始め関係者は愛知県の児童に広く一円募金を呼びかけて二十余万円の浄財及び資材を集めるに至り、同年五月五日小桜の塔が建立された。」

16-0430 悪石島の霊石

18-0412 対馬丸記念館

19-0430 旭ヶ丘公園ご案内

20-0430 旭ヶ丘公園MAP

21-0430 対馬丸記念館

22-0430 対馬丸記念館

23-0430 小桜の塔ご案内

24-0430 小桜の塔

25-0430 海鳴りの像

26-0430 海鳴りの像

27-0430 海鳴りの像

28-0430 戦没新聞人の碑

30-0430 殉職警察職員慰霊之碑

31-0430 ふんばるガジュマル

32-0430 ふんばるガジュマル

33-0430 波上

34-0430 波上

35-0430 波上

「波上(ナンミン)指定年月日:平成18年10月10日…波上は、人々から信仰の場として崇められ、景勝地としても親しまれてきました。 海に突き出した琉球石灰岩の崖には、沖縄貝塚後記から歴史時代初期の墓所である『波上洞穴遺跡』が存在し、波上宮社殿造営工事の際には、沖縄貝塚時代後記並びに14~16世紀の遺跡が確認されています。 『おもろさうし』(1531年~1623年)にも謡われ、波上宮が立地する以前から信仰の場であったことをうかがわせる陽石や石垣の存在が認められています。 『琉球神道記』(17世紀)、『琉球国由来記』(1713年)などに波上宮(祭神は、伊弉冉尊、いざなみのみこと・速玉男尊、はやたまおのみこと・事解男尊、ことさかのおのみこと)の縁起が記載されており、護国寺(本尊は、阿弥陀如来・薬師如来・千手観世音菩薩)とともに人々の尊崇を集め、王府の行事にも位置づけられるほどに重要な場所でした。 また、景勝地としての波上は、1663年(崇禎6)年に尚清王の冊封正使として来琉した杜三策(とさんさく)の従客だった胡靖(こせい)が著した『杜天使冊封琉球真奇観(とてんしさっぽうりゅうきゅうしんきかん)』をはじめ、たびたび冊封使録に登場しています。 18世紀の中葉、当地を訪れた冊封正使周煌が著した『琉球国志略』(1757年)に掲載されている『球陽八景』の一つとして、『筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)』と題して描かれ、名高い景勝地であったことがわかります。 また、琉歌には、「でかよう思童波之上のぼて 月見し遊ば十五夜だいもの」「昔波之上に無蔵とながめたる 面影や今も月に見ゆさ」などと詠われ、そこが月見の景勝地であるとともに、逢瀬の場所であったこともわかります。 第2次世界大戦により、波上は戦災を受け、わずかに鳥居を残すのみになってしまいましたが、周囲の海岸線の埋立が急速に進められる中、往時の姿が偲ばれます。 設置 2008年3月 那覇市教育委員会」

36-0430 現在の波上宮(西側より撮影)

37-0430 昭和初期の波上宮(西側より撮影)

39-0430 波の上ビーチ

40-0412 波の上ビーチ

41-0412 波の上ビーチ

42-0412 波の上ビーチ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿