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身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

那覇の墓地地帯「辻原墓地跡」、華やかな社交場・花街「辻村跡」

2014-07-29 | 歴史

 那覇市若狭「波上」に隣接した地域には、「辻原・辻山」と呼ばれていた台地があり、那覇の墓地地帯でした。戦後の区画整理により、辻原一帯の墓は、すべて移転を命じられ、移転先として、那覇市首里に識名霊園が整備され、海岸丘陵は削り取られました。辻一帯は、歓楽街として整備されています。

01-0511 辻原墓地跡

02-0511 辻原墓地跡

03-0511 辻原墓地跡

04-0511 辻原墓地跡

「辻原墓地跡(チージバルボチアト)…那覇(なは)の北西沿岸部の『辻原にあった墓地群跡。 かつて、那覇の北の海岸は、『潮の崎(スーヌサチ)』・『波上(ナンミン)』・『雪の崎(ユーチヌサチ)』と呼ばれる岬があり、岩礁台地が連なっていた。『潮の崎』後方の台地は、『辻原』・『辻山(チージヤマ)』などと呼ばれた。 辻原の墓は、浮島であった那覇に、『閠人(びんじん)三十六姓』と呼ばれる中国からの移住者が、『久米村(クニンダ)』を形成し始めた14世紀後半以降から造られたと思われる。東村(ひがしむら)・西村(にしむら)に居住した人々の墓も造られ、那覇の一大墓地地帯となっていた。1853年に来琉したペリー提督の『日本遠征記』では、『海上から眺めると、所々に白い斑点があった。最初、民家ではないかと思ったが、後でそれが、琉球の墳墓(ふんぼ)であることがわかった』と記している。1932年(昭和7)と、その翌年に沖縄を訪れた山崎正董(やまざきまさとう)熊本医科大学(現熊本大学医学部)名誉教授は、辻原墓地の印象を『墓の数の多いことと、その構造の多種多様なことに驚かされる。(中略)、まるで墓の見本市のよう』(『山崎博士の演説と文章』)と述べ、亀甲墓(カーミヌクーバカ)や破風墓(ハーフーバカ、切妻型)など沖縄式の墓が多数あったことがうかがえる。普段は人気もなく、荒涼とした辻原も、旧暦3月の清明(シーミー)の時期には、それぞれの墓に親戚一同が集まり、墓前に重箱を広げ、賑わいを見せたという。 終戦後の1953年(昭和28)から始められた、辻(つじ)から若狭(わかさ)にかけての区画整理では、辻原を含む海岸一帯にあった1,700基余りの墓は、すべて移転を命じられ、海岸丘陵は削り取られた。墓石や周囲の石垣は、ほとんどが埋立部材や石粉(イシグー)として道路整備などに使われた。辻原跡地は、その後、歓楽街として整備され、現在もその名残を留めている。 なお、墓の移転先として、1956年(昭和31)から識名(しきな)霊園が整備された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

05-0511 戦前の辻原墓地

06-0511 戦後の辻原墓地跡地一帯

 明治初期まであった「辻」「仲島」「渡地」の3つの花街は統合され、「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られていましたが、1944年10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じました。

 「辻村跡」の案内板の後方には、「火の神」「花の代 ウミチルヌメー 辻開祖」「花の代 マカドカニヌメー 辻開祖」「花の代 ウトゥダルヌメー 辻開祖」などの祠や「うないみやらびの里 辻開祖之墓」などがあります。案内板には、「1935年頃の那覇市街地図」「旧辻村之図」「辻の前道」「裏座の風景」「客をもてなすジュリ」「琉球美人と称されたジュリたち」「戦前のジュリ馬行列」「ジュリ馬装束の女性」の写真とともに、辻村の経緯などが記されています。

07-0511 辻村跡

08-0511 辻村跡

09-0727 辻村跡

10-0727 辻村跡

「辻村跡(チージムラアト)…那覇(なは)の北西部にあった花街(はなまち)跡。辻村(つじむら)、または単に辻(つじ)といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は『ジュリ』と呼ばれ、『侏偶』・『尾類』の字が当てられた。 琉球王国におけるジュリの起源については不明だが、15世紀以降、唐(とう、中国)や南蛮(なんばん、東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使(さっぽうし)一行や大和からの商人等をもてなした『ジュリ』が居たといわれる。『球陽(きゅうよう)』には、1672年に『辻』・『仲島(なかじま)』に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを『辻』・『仲島』に集めた記事だと思われる。また、那覇港に隣接する渡地村(ワタンジむら)にも花街が創られ(創建年不明)、『辻』・『仲島』・『渡地』の3ヵ所が琉球の花街として明治初期まで存続した。 1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札、かんさつ)が交付された。1908年(明治41)に『仲島』・『渡地』の花街は廃され、『辻』に統合された。これにより『辻』は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また、旅客が宿泊する場所ともなった。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。『辻』は、沖縄県下最大の社交場、『華やかな』場所として知られた。 一方、辻の女性は、『アンマー』(ジュリの抱え親・裏座敷の女将)を筆頭に、『ジュリ』、「ナシングヮ」(アンマーが産んだ子供)、『チカネーングヮ』(貧困のために幼い頃に『辻』に売られた子:『コーイングヮ』ともいう)などで擬制的家族を作り、『辻』の親・仕舞いはもとより、故郷の親・兄弟をはじめ、人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。また、神への祈りと祭りを取り仕切る『盛前(ムイメー)』と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月(はつかしょうがつ)の『ジュリ馬(うま)』行事を始め、言葉・立ち居振る舞いから、衣装・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げた。 1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな『辻』も、1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。 2014年3月 那覇市歴史博物館」

11-0727 旧辻村之図

12-0727 辻の前道

13-0727 裏座の風景

14-0727 1935年頃の那覇市街地図

15-0727 客をもてなすジュリ

16-0727 琉球美人と称されたジュリたち

17-0727 戦前のジュリ馬行列、ジュリ馬装束の女性

18-0727 辻村跡

19-0727 辻村跡

20-0727

21-0727

22-0727 火の神

23-0727 花の代 ウミチルヌメー 辻開祖

24-0727 花の代 ウミチルヌメー 辻開祖

25-0727 花の代 マカドカニヌメー 辻開祖

26-0727 花の代 マカドカニヌメー 辻開祖

27-0727 花の代 ウトゥダルヌメー 辻開祖

28-0727 花の代 ウトゥダルヌメー 辻開祖

29-0727 うないみやらびの里 辻開祖之墓

30-0727 うないみやらびの里 辻開祖之墓

31-0727 辻村跡

32-0727 辻村跡

33-0727

34-0727 辻一帯


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