結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

湧田地蔵堂跡(開南小学校)、武徳殿跡(沖縄県議会敷地)、開南(開南バス停)

2014-05-23 | 歴史

 那覇市泉崎1丁目、那覇市役所に隣接した「開南小学校」の外塀、県警本部よりの角に、「湧田地蔵堂跡」の説明板があり、経緯が記されています。校門付近のデイゴの花が、開き始めました。

01-0514 開南小学校

02-0514 左手は開南小学校、前方は県警本部

03-0514 湧田地蔵堂跡

04-0514 湧田地蔵堂跡

05-0514 湧田地蔵堂跡

06-0514 湧田地蔵堂跡

07-0514 湧田地蔵堂跡

08-0514 湧田地蔵堂跡

09-0514 デイゴ

10-0514 デイゴ

「湧田地蔵堂跡(ワクタジゾウドウアト)…地蔵菩薩(ぼさつ)を安置したお堂跡。 地蔵菩薩は、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間(にんげん)・天上(てんじょう)の六道(ろくどう)の輪廻(りんね)に苦しむ人々を救う仏とされ、日本では平安時代以降、六道の巷(ちまた)を住処(すみか)とする地蔵と、境(さかい)を守る道祖神(どうそしん)が習合(しゅぅごう)し、道々の境界に地蔵が祀(まつ)られるようになった。 湧田地蔵堂は、真言宗(しんごんしゅう)の僧日秀上人(にっしょうしょうにん、1503~1577年)が、1538年泉崎村(いずみざきむら)の南に位置する湧田村(わくたむら)に建立した。堂は赤瓦屋根の中央に擬宝珠(ぎぼし)を載せた八畳程度の平屋で、中央に石柱が立ち、石柱上部は六角の厨子(ずし)の形であった。厨子の中に上人手彫りの木像が安置され、厨子には「欽奉(きんぽう) 六道能化(ろくどうのうげ)地蔵菩薩 現世安穏(げんせあんのん) 後生善所(ごしょうぜんしょ) 大明嘉靖(だいみんかせい)十七年戊戌三春晦日(ぼじゅつさんしゅんみそか) 敬白(けいはく)」の文字が刻まれた。 泉崎・湧田村では地蔵菩薩を村の守護仏として、旧暦の1日・15日、9月9日、10月の「竈まわり(カママーイ)」等に拝んだとされるが、普段は鬼ごっこや陣取りなどをする子どもたちの遊び場であったという。 日秀上人建立の地蔵堂は、湧田の他に、那覇(なは)地蔵堂(東村、ひがしむら・西村、にしむらの境)と若狭町(わかさまち)地蔵堂があったが、1944年(昭和19)の10・10空襲やその後の沖縄戦により破壊された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

 沖縄県議会敷地花壇の一角に、「武徳殿跡」の説明板が設置されています。

11-0519 沖縄県議会

 

12-0519 沖縄県議会敷地内花壇

13-0519 沖縄県議会敷地内花壇

14-0519 武徳殿跡

15-0519 武徳殿跡

「武徳殿跡(ブトクデンアト)那覇市泉崎1-2-3 沖縄県議会事務敷地内…大日本武徳会(だいにほんぶとくかい)沖縄支部によって建てられた武道場跡。 大日本武徳会は、武道を奨励(しょうれい)し、武徳の涵養(かんよう)を目的に、1895年(明治28)4月、京都で設立された。各府県に支部を置き、警察組織を通じて、武道の普及と振興をを図った。 沖縄支部は、1933年(昭和8)12月に設立し、さらに、専用の演武場『武徳殿』の建設機運が高まると、支部役員・武道関係者・県下警察署が中心となり、寄付金を集め、建設資金とした。 建設地は、沖縄県庁構内警察練習所とされ、大城龍太郎(おおしろりゅうたろう)警察部技手の設計により、1938年(昭和13)6月に起工、翌年竣工した。敷地は約330坪、神明入母屋(しんみょういりもや)造りの瓦葺(かわらぶ)きで、鉄筋コンクリート造り地下1階、地上2階建てであった。竣工後の6月18・19日には、武徳会会長林銑十郎(はやしせんじゅうろう)大将以下関係者を招き、開殿式や柔剣道・空手の古式型模範演技が行われ、記念大会も開かれた。 武徳殿は武道大会や普及・指導の場所として、武道のメッカとされたが、戦時体制下では、軍需物資の保管庫に転用された。1944年(昭和19)の10月10日の10・10空襲や、その後の地上戦では、一部損壊しただけで戦災を免れ、米軍より『Increate Japanese Style』(不滅の和風建築)と称された。 米軍に接収された武徳殿は、1947年(昭和22)4月に将校クラブとして改修され、舞踏会も開かれた。1949年(昭和24)、沖縄民政府に譲渡され、行政庁舎として使用された。1959年(昭和34)からは、警察武道場となった。 1985年(昭和60)、沖縄県庁新庁舎の新築、それに伴う武徳殿の取り壊し計画が発表されると、保存運動も起きたが、1989年(平成元)9月に解体された。跡地は沖縄県議会敷地の一部となった。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

16-0519 武徳殿跡

17-0519 武徳殿跡

18-0519 花壇

19-0519花壇

20-0519花壇

 開南バス停に、「開南」の説明板が設置されています。この一帯は、字樋川(行政区)でしたが、南極探検船「開南丸」に因んだ「私立開南中学校」の校名より、「開南」(通称地名)と呼ばれるようになったようです。

21-0504 開南バス停

22-0504 開南バス停

23-0504 市街地案内図

24-0504 開南

25-0504 開南

26-0504 開南

27-0504 開南

「開南(カイナン)…この地域一帯の通称地名。地名の由来は付近に建てられた学校名による。 かつて、この一帯は真和志間切与儀村(まわしまぎりよぎむら)の村外れで、墓が点在する場所であった。 大正期、付近に沖縄県立第二中学校(現那覇高校)、沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設され、にわかに人口が増え始めた。このため、1928年(昭和3)与儀から樋川原(ひがわばる)・神里原(かんざとばる)が分離され、字樋川(あざひがわ)という行政区が誕生した。 1936年(昭和11)樋川の高台に、私立開南中学校(志喜屋孝信校長)が開校した。校名は、白瀬(しらせ)隊長率いる日本初の南極(なんきょく)探検隊(1911年)が乗り込んだ『開南丸(かいなんまる)』に因み、「日本の南を開く」の意図のもと命名された。 沖縄戦により、開南中学校は廃校となったが、開南中学校跡地に、1947年(昭和22)6月、開南初等学校が創設され、再び「開南」の校名が付けられた。 同年11月頃、この地から松尾(まつお)に向かう道途中に闇市(やみいち)が発生した。闇市取締のため、後に牧志(まきし、現牧志公設市場一帯)に市場が開設されたが、市場への買い物や品物運搬などで、一帯の交通量が激増した。バス路線開通後は「開南バス停」が設置され、特に島尻(しまじり)方面から市場や牧志への乗降所として賑わいを見せた。 開南小学校は1952年(昭和27)に泉崎(いずみざき)へ移転したものの、バス停を始め、付近の病院・商店等が『開南』の名を冠し、戦後この一帯の通称地名として定着した。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」


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