結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

行脚村跡(那覇市首里久場川)、新天地劇場跡(那覇市西)、西の海跡(那覇市西)

2014-05-24 | 歴史

 那覇市首里久場川2丁目、「タウンプラザかねひで首里久場川市場」「ローソン」近く、首里「りうぼう」に向かう手前の信号左側に、「行脚村跡」の説明板が設置されています。ニンブチャー、チョンダラーと呼ばれた人々の居住地跡だそうです。

01-0514那覇市首里久場川

02-0514 行脚村跡

03-0514 行脚村跡

04-0514 行脚村跡

「行脚村跡(アンニャムラアト) 那覇市首里久場川2-90-1地先…ニンブチャー(念仏者)、チョンダラー(京太郎)と呼ばれた人々の居住地跡。安仁屋村とも書く。 居住の由来は明らかではないが、18世紀初頭に作製された『首里古地図(しゅりこちず)』には、首里城の北東、久場川村(くばがわむら、現首里久場川町)の東端に『行脚屋敷(アンニャヤシチ)』とあり、1945年(昭和20)の沖縄戦に至るまで、ニンブチャーの頭(かしら、勢頭、シートゥ)一族が居住していたという。 ニンブチャーは、正月やお盆、また、法事がある家々を回って、祝い歌や念仏歌を唱え、時にはフトゥキ(仏)と称する人形を携え、人形芝居を演じる門付(かどつ)け芸を行った。葬儀の時には、ニンブチャーが呼ばれ、朝から鉦鼓(しょうこ)を打ち、葬列に加わって、墓前で念仏歌を唱えた。葬儀に僧侶を頼めない時は、ニンブチャーが代わりを務めたという。 ニンブチャーが唱える念仏歌や、チョンダラーの芸は、七月エイサーや組踊・歌劇などに取り入れられ、琉球・沖縄の芸能の発展に大きく寄与した。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

 那覇市西消防署通り、「西(北)」交差点前、左手に、「新天地劇場跡」の説明板が設置されています。当初は「若葉団」の専用劇場「那覇劇場」でしたが、常設映画館「新天地劇場」となり、その後、一帯の区画整理のため撤去されています。

 

05-0514 行脚村

06-0514那覇市西

07-0514那覇市西

08-0514 新天地劇場跡

09-0514 新天地劇場跡

10-0514 新天地劇場跡

11-0514 新天地劇場跡

「新天地劇場跡(シンテンチゲキジョウアト) 那覇市西1-12…那覇市上之蔵町(なはしうえのくらちょう)の石門(いしじょう)にあった劇場跡。1922年(大正11)建立で、最初の劇場主は奄美(あまみ)出身で眼科医の向井文忠(むかいぶんちゅう)氏。 那覇劇場は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの二階建てで『石屋(イシヤー)』とも呼ばれ、瓦葺(かわらぶ)き屋根が軒を並べる那覇の街ではひときわ目立った建物だった。敷地は約190坪、収容人員は約1,500人であったという。 当初は『那覇劇場』という名で、新垣松含(あらかきしょぅがん)・多嘉良朝成(たからちょぅせい)・平良良勝(たいらりょうしょう)等が結成した『若葉団(わかばだん)』の専用劇場であったが、高台に建設されたこともあり、観客の入りがおもわしくなく、『若葉団』はまもなく解散。その後は『新天地劇場』という名の常設映画館として運営された。 1934年(昭和9)から1943年(昭和18)まで真境名由康(まじきなゆうこう)・鉢嶺喜次(はちみねきじ)・島袋光裕(しまぶくろこうゆう)等が結成した『珊瑚座(さんござ)』が専用劇場として使用し、「珊瑚座」の名称が定着した。 1944年(昭和19)10月10日の空襲で、劇場内部は被害を受け焼失したが、外部のコンクリート壁面は焼け残った。沖縄戦後もしばらく放置されたが、1953年(昭和28)から始められた一帯の区画整理のため撤去された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

12-0514 新天地劇場跡

 那覇市西、県道43号線、「那覇ショッピングセンター」の道向かい、「エンゼルハイム西町」の前に、「西の海跡」の説明板が設置されています。三重城から、辻三文殊公園一帯は、「西の海」と呼ばれ、那覇の人々に親しまれた海辺でしたが、何度かの埋立と区画整理により、現在は、住宅地、倉庫街となっています。

13-0514 那覇ショッピングセンター

14-0514 県道43号線那覇港方面

15-0514 エンゼルハイム西町

16-0514 那覇ウェストイン

17-0514 エンゼルハイム西町

18-0514 西の海跡

19-0514 西の海跡

20-0514 西の海跡

「西の海跡(シヌウミアト) 那覇市西1-16地先…西村(にしむら、現那覇市西、なはしにし)の西の海のこと。童謡『アカナー』にも歌われており、那覇の人々に親しまれた海辺であった。 かつて、那覇港先の三重城(ミーグスク)から、塩の崎(スーヌサチ、現那覇市辻三文殊公園一帯)にかけては、U字形に湾入(わんにゅう)しており、『西の海』と呼ばれた。沿岸部は『下り(サガイ)』と呼ばれ、『牛町(うしまち)下り』・『嘉手川(かでかわ)下り』等の小字があった。1733年、那覇の人口増加に対応して、西の海の一部を埋め立てて、宅地にしたという(『球陽、きゅうよう』尚敬王21年条)。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、本格的に西の海の埋め立てが行われ、1882年(明治15)、『湯屋の前(ユーヤーヌメー)』と呼ばれる一帯約400坪が埋め立てられ、東本願寺(ひがしほんがんじ、現真教寺、しんきょうじ)が建立された。1888年(明治21)には、第百四十七銀行支店長田代静之助(たしろしずのすけ)により、三重城に伸びる突堤(とってい)付近約4,000坪の埋立が計画され、後にこの一帯は、西新町(にししんまち)1~2丁目となった。 1908年(明治41)、沖縄県により埋立事業が開始されたが後の尚順(しょうじゅん、最期の琉球国王尚泰の四男)が引き継ぎ、1922年(大正11)に竣工した。一帯は、西新町3丁目となり、俗にミーガタ(新潟)と呼ばれ、1~2丁目はフルガタ(古潟)と呼ばれた。島嶼、ミーガタはゴミ捨て場同然だったといわれるが、1915年(大正4)6月に大正劇場が新築された。同劇場では、1932年(昭和7)に玉城盛義(たまぐすくせいぎ)等が『真楽座(しんらくざ)』を結成し、新天地劇場の『珊瑚座(さんござ)』と人気を二分したという。 終戦後、同一帯は、さらなる埋立と区画整理により、住宅地の他、倉庫街となっている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

21-0514 西の海跡

22-0514 西の海跡


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