名護市豊原地区の「久辺小学校」、久志地区の「久志の観音堂」「久志之若按司の墓」「祝女殿内」「久志区公民館」などを訪ねました。
「久辺小学校」は、明治28に創立した小学校で、「久辺幼稚園」「久辺中学校」に隣接しています。
01-0902-1413-0 久辺小学校
02-0902-1414-0 久辺小学校
03-0902-1414-1 久辺小学校
04-0902-1414-2 久辺小学校
05-0902-1415-0 久辺小学校
06-0902-1415-1 久辺小学校
07-0902-1415-2 久辺幼稚園
08-0902-1416-0 久辺小学校
参照(久辺小学校 - http://sw.city.nago.okinawa.jp/kube-s/)
09-0902-1413-1
10-0902-1413-2
11-0902-1413-3
久辺小学校から、「県道13号線」を西方(宜野座方面)に行くと、「久志の観音堂」「久志之若按司の墓」があり、道路を挟んだ海岸側には、「慰霊塔」がありました。
12-0902-1419-0 豊原地区会館
13-0902-1435-0 久志の観音堂
14-0902-1438-1 久志の観音堂
15-0902-1435-2 久志の観音堂
16-0902-1435-3 久志の観音堂
「久志の観音堂(くしのんのんどう) 市指定文化財(有形民族文化財) 昭和六二年七月十五日指定…琉球王府時代に書かれた歴史の本『球陽(きゅうよう)』の中の尚貞(しょうてい)王二十年(一六八八年)の記事に、『尚経(しょうけい、豊見城王子朝良)と顧思敬(こしけい、久志親方助豊)が、久志間切(まぎり)の総地頭(そうじとう)の時、観音様の石像をもらい受け、それをおさめるお堂を久志の村に建て、それ以後、村の人々は、毎月一日、十五日、十八日、二十三日に、そこを拝むようになった、と書いてあります。 地元では、この観音堂のことを『ティラ』と呼び、観音石像のことを『ティラヌタンメー』と呼び親しんでいます。特に、旧暦の一月十八日、九月十八日の、十二月二十四日には久志区を上げて観音堂を拝み、村の繁栄(はんえい)と村人の健康を祈ります。また個人的に、旅に出る時の安全祈願(きがん)や子供の誕生(たんじょう)、合格祈願などに拝まれ、区民が亡くなったときに行う『ヌギファ(魂が残らないように祭ること)』のときにもここを拝んでいます。 現在のお堂は、昭和四十八年(一九七三年)に修復(しゅうふく)されたもので、建材(けんざい)にはすべてチャーギ(イヌマキ)が使用されています。 この観音堂の建つところを、地元では『アタイ』と呼び、その近くに久志の村の『古島(ふるじま)』があったと伝えられています。 平成七年(一九九五年)五月 久志区 名護市教育委員会 なお、許可なしに、文化財の現状を変更したり、保存に影響を及ぼす行為は、法律及び条例で禁じられています。」
参照(名護市役所-名護市の文化財と史跡_22/久志の観音堂 http://www.city.nago.okinawa.jp/1/162.html)
17-0902-1436-0 久志古島遺跡
18-0902-1437-1 久志古島遺跡
「久志古島遺跡(くしふるじまいせき)…字久志の旧集落跡で、喜名焼ないしは知花焼と思われる沖縄産陶器を中心に、中国産青磁、南蛮陶器、灰色瓦、そして壷屋焼の陶器などが採集されています。遺跡の北側では、古琉球から近代にわたる水田遺跡が確認されています。時代:琉球王国時代前期~近世前半(約600年前~約300年前)」
19-0902-1442-0 慰霊塔入口
20-0902-1443-0 慰霊塔
本家の主君の仇討ちをした久志の若按司
組踊「久志の若按司」は、だまし討ちに合った本家の主君の仇討ちを果たした久志の若按司の物語です。
「組踊 久志の若按司 …〈あらすじ〉天願の按司は、謝名の大主にだまし討ちに合い殺される。遺児となった天願の若按司と乙鶴も、逃げ延びる途中で謝名の臣下である富盛大主に捕らえられる。それを知った天願の分家である久志の若按司は、他の臣下らと供に東恩納番所へと向かい2人の救出に成功する。久志の若按司は、一計を案じ、捕らえた富盛の大主に、偽りの情報を流して逃がし敵方同士を仲違いさせることに成功し、ついには罠とも知らず久志の城に攻め入った謝名の大主らを捕らえ、首尾良く主君の仇討ちを果たす。」
引用(国立劇場おきなわ_php http://www.nt-okinawa.or.jp/index.php?option=com_theater&act=look&ID=632/)
21-0902-1445-0 久志之若按司の墓
22-0902-1445-1 久志之若按司の墓
23-0902-1447-1 久志之若按司の墓
24-0902-1448-0 久志之若按司の系統
久志の観音堂、久志古島遺跡、久志之若按司の墓などは、丘陵地にあり、平地に入ると、「久志の神アサギ、祝女殿内」がありました。集落の中程には、「久志区体育館、ウュヤガー藍屋井、久志区公民館、久志区図書館、久志区憩いの館」などがあり、「久志貝塚」の説明板もありました。
25-0902-1454-1 久志の神アサギ
26-0902-1452-0 祝女殿内
27-0902-1452-2 祝女殿内
28-0902-1456-0 久志貝塚
29-0902-1456-1 久志貝塚
「久志貝塚(くしかいづか)…字久志の初期集落の可能性があります。1979年の発掘調査で、貝塚時代後期後半の土器が多数出土し、住居跡も6軒確認されました。後期土器の中に稲のモミ圧痕が確認され、稲作の存在を観察する資料となっています。 時代:沖縄貝塚時代後期後半~グスク時代前期(約1700年前~約800年前)」
30-0902-1457-0
31-0902-1457-1 久志区体育館
32-0902-1458-0 ウュヤガー藍屋井
33-0902-1458-1 ウュヤガー藍屋井
34-0902-1457-2 久志区公民館
参照(久志公民館 久志区事務所 http://www.localplace.jp/t000406605/)
35-0902-1500-0 久志区図書館
36-0902-1502-0 久志区憩いの館
久志地区の県道13号線を西へ進むと、国道329号線と合流し、さらに西へ進むと、宜野座村松田に接続します。
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