(断捨離Iはこちら)
手紙類を整理しているときに素敵なメッセージカードを見つけた
イギリスWarren社のDufex Printというホイルアート
(このスキャン画像ではホイルの輝きが伝わらないけどホントはキラキラ)
これは数年前にご縁のあったオーストラリア人の患者さんが、海が好きな私に送ってくれた。
いまは天国にいる彼が、
「あなたの虹の輝きのスピリットで僕に波動を送ってください。キャッチします。」
と素敵なサンキューメッセージ付きで送ってくれた。
いまは彼の方が、私たちよりも何倍も何十倍も賢い存在となって、虹の上から私たちに素敵な波動を送ってくれているんだと思う。
ありがとう。
額装されて玄関ホールの壁に飾られた
私は日々仕事で多くの患者さんと出会う。
そのなかには死を宣告された患者さんも少なくない。
患者さんは私にとって師匠で、患者さん以上の師匠はいない。
数えきれないほどの多くのことを学ぶ。
希望を持って病気と向かい合い
希望を持って生き
希望を持って死を迎える
どれも学校でも会社でも全く教えてくれないものばかりだ。
日本でもアメリカでも何度も教会のミサに参加したけど、患者さんほどには教えてくれない。
お寺でありがたいお説教を聞くこともあるけれど、患者さんほどには学ばせてくれない。
状態がどうであれ、個性豊かに精一杯生きて、素敵に穏やかに死を向かえるプロセスを患者さんほど背中で示してくれる人たちはいない。
このカードをくれたオーストラリア人の彼もそうだ。
私はいつもそんな患者さんたちを見て、自分はどうだ?と振り返る。
こんなふうに人生を送れるか?
こんなふうに病気に向かい合えるか?
こんなふうに死を受け入れ迎えられるか?
口先だけで、ご立派なことを、知ったような顔して、偉そうに押しつけていやしないか?
だから私は常々考える。
自分は納得いく人生を送っているか?
いつ死んでもよい準備ができているか?と。
毎日考える。
今日死を迎えてもOKか?と
患者に話をするときに、自分は本当に自分の言っていることを自分自身の中に統合して一貫性をもっているか?と。
私は今日死んでもOKか?
答えは
「概ねYES」だ。
これは、この仕事を10年やってきて毎日患者さんたちに鍛えられたトレーニング成果だと思う。
アメリカインディアンの格言に、
「己のいのちが永遠であるかのごとく生きよ。そして今日死を迎えてよいかの如くいきよ」というのがある。
また、「今日は死ぬのにいい日="It's good day to die"」という言い回しがある。
悔いなく生きよということだ。
私は家族も、友人も、仕事で出会った人々も、素敵で意味ある人ばかりで良いご縁をいただいた。
来世があるならまたご一緒したいひとたちばかりだ。
人間関係に悔いはない。
仕事そのものも、それなり自分が大切だと思うことはやってきたと思うし、もはや私が今日いなくなってもすべて機能することも理解しているし安心している。
仕事にも悔いはない。
地球もまだ行きたいところはあるし、もっともっと冒険したいけれど、それでも自然の素晴らしさは大いに堪能させてもらったし感謝している。
ま、どれもまだ足りなかったらまた生まれてくりゃいいかなってところだ。
ただし、「概ねYES」であって、ひっかかる部分がある。
今日死んでは困ることがある。
それは
「部屋が散らかっていること」だった。
私は人が来るとわかっていれば、それなりに片付け。。。
いや片付いているように見せるテクニックを習熟していた。
一気にモノをクロゼットに押し込んだり、急きょ洗濯機がクロゼットになったりといった具合だ。
ところが不意打ちに来客などあったなら、こりゃNGなのだ。
ガス点検やら火災報知機点検やらも、何度も居留守をつかった。
部屋に入って欲しくないのである。
「明日行くからねー」と前もって連絡してほしいのである。
綺麗な部屋の主としてあらわれたいのである。
ええかっこしいなのである。
だから、ピンポーンと来てもセキュリティーモニタで点検の人たちだったら、物音立てずにじっとして、諦めるのを待つ。
後日部屋を片付けてから出直してもらうのだ。
ま、メンテナンスの人はそうやって出直してもらえば良いけど、死というものはアポなしで突然くることも多いし、居留守もつかえないだろう。
都会で一人暮らしの私にはそんな場合、なすすべがない。
だから賢い私は妹と契約を交わしている。
「あたしが死んだら、あんたがまず部屋に入って、中のものを全部捨てること。その代りあんたが欲しいものは何でも持ってってよし」とまぁ、がらくたの山を金貨の報酬のごとく契約を交わしたのだ。
これで一安心。
はっはっはー!
でもまてよ。。。
第一発見者が妹でなかったら。。。
うーん。。。
かなり厳しいシチュエーションだ。。。
きっと私の魂は天に向かえず、部屋の中にとどまり、
「ちょっとちょっとあんただれよ!私の部屋に入っていいのは妹だけなのよ!」と叫びつつも届かず、立ちはだかってもスルーされ
「あぁ、そこだめ、開かずの扉!。。。あぁ、くずれ出ちゃったよー」
「あぁ、その引出しダメ!。。。そのヨレヨレ下着は。。。うーんとえーとそのー、私じゃない私じゃない、お、お母さんのぉ。。。」
「その写真はすっぴんだからぁ!」
「そんな本読んでいないからぁー!知り合いが忘れてったからー!」
「あぁ、PC立ち上げないで、そのフォルダ極秘だからー!」
とか言ってるな。
ま、問題に直面したときにできることはふたつにひとつ、
考え方を変えるか、行動を変えるかだ。
迷うことなく前者を選んだ。
認知修正は患者さんとも毎日やっているから得意分野だ。
えーと、
「たとえ部屋が散らかっているからと言って、私はダメな人間ではない」
「部屋が汚いからと言って、心が汚いわけではない」
「部屋が散らかっていても私がいい人間であることには変わりない」
「部屋が散らかっている人間の方が実は案外いいやつかもしれない」
猛特訓だ。
ところが何度やってもなかなか腑に落ちない。
腑に落ちたと思ってもまたぶり返し出てくる。
うーん、そんなときは後者の行動を変えるしかないのだ。
死を以ての許可を得てから妹に捨ててもらうまでもなく、私が最初っから捨ててりゃいいのだ。
断捨離をやってからはこの部分、この大~きな部分にエネルギーを浪費せずに済むようになった。
だれがいつ来ても、どの引出しや扉をひらいてくれてもOK!。。。なはずだ。。。と信じたい。
今日死を迎えても大丈夫か?
YES, IT'S GOOD DAY TO DIE...
いつ死んでも良い準備ができたら、なんだか生きるエネルギーがさらに湧いてきた。
天国の大先輩たちも「うまいことクリアしたな」とウェルカムしてくれるにちがいない。