今年も残すところあと一日。
今日の十番は静かに活気がある。
観光客やお出かけ組はほとんどおらず、地元の人間が正月の買い出しに、いそいそと十番大通りや雑色通りを行き交い挨拶を交わす。
私の好きな光景だ。
私も鏡餅とお飾りの花を求めて紛れた。
準備万端。あとはゆったり新年を迎えるのみ。。。
。。。といきたいところだが。。。
明日の大みそかは必ずこれをやると決めていることがある。
それは「断捨離」 【英:DANSHARI】
http://danshari.at.webry.info/
過去に溜めこんだ、家の中や身の回りにある不要なものを一気に捨て、身も心もすっきりしちゃえというコンセプトだ。大掃除とともにこの断捨離を行おうと決めたのだ。
私が毎月定期的に出張する地方クリニックのセラピストのたまちんが、数ヶ月前からこの断捨離をはじめた。
彼女のブログや生の声で報告を聞くようになってから、かなり気になっていた。
たまちんが、会うたびに、なんだかどんどんすっきりしていっているのだ。
http://precious.hida-ch.com/e74023.html
私はたまちんのすっきりに憧れた。
私もすっきりしたい。
いろいろすっきりしたい。
年内にすっきりしたい。
私はモノを捨てられず、モッタイナイと溜めこむ性分だ。
我ながら地球にやさしいエコ人間だと称えたい。
これはモノに乏しかった時代を生きた母親から継承したものだろう。
よって母のせいにしたい。
モノに執着なくどんどん捨てる妹は、突然変異の例外としたい。
ただ、曲がりなりにも心理畑、放っておけばどんどん部屋がモノの山になって、憂鬱な気分になる自分の性分も熟知しているので、月に一度は意識的にモノを捨てる日というのを決めていた。
片付ける日ではなく、捨てる日だ。
日々の臨床現場でも、患者さんに対して、人生や物事をシンプルにすることは大切なので、不要なものはどんどん手放すよう促してきた。
そして、自らも不要なものを手放してきたつもりだった。
ところがそれはあくまでも、つ・も・り・
現状はといえば、今住んでいるワンルームマンションも、収納が不十分で服やものが溢れている。クロゼットの外にも衣装箱が雑然とストックされているというありさまなのだ。
ソファやベッドの下はパツパツ。
そして引出の中もパツパツだ。
いつか整理しなくちゃと思いつつ、何年もそのままにしてきた。
それらは使えるもので必要なものだからきちんと整理しさえすれば全て機能すると思っていた。
なので、東急ハンズでエキストラのクロゼットも購入した。
ところが、たまちんからこの断捨離のコンセプトを学んで、まさに目からウロコだった。
「いつか使えるもの」は必ずしも必要なものではなく、「いつも使うもの」が必要なものだという。
うーん、まーったくをもってそのとおーーーり!
なんでそんなシンプルであたりまえなことにいままで気付かなかったのか。
使えるのでモッタイナイからとっておくのは正論と信じて疑わなかった。
だから私は「使える」けど「使わない」ものをたくさん溜めこんでいた。
そしてその「いつか使える」ものがいったいどこにあるのかも把握しきれていない。
「いつか」が来たら探せばいいやと思っているのだが、「いつか」はこないので忘れるのだ。
人間関係や仕事の契約だって、「そのうち」や「いつか」はないものと思ってまず正しいだろう。
私たちの周りのほとんどのモノは、私たちの寿命が尽きた後も存続し、使えるだろう。
ってことは、使えるものを全て取っておいたのであれば、死ぬまで年を重ねるごとに私の部屋はゴミ溜と化するということになってしまう!
ひえー!
モノは使ってはじめて価値が出る。
使えるものを使わずにずーっととっておくことこそ、まさにモッタイナイ。
たまちんから断捨離を行うには、かなりの勇気と決断力を必要とするとさんざん聞かされていた。
だから私もそれなりの覚悟を決めていた。
たまちんが断捨離で学んだことをきれいにノートにとっていたので、そのコピーを貰い、ここ一週間は仕事の合間や地下鉄の移動の時間など、暇を見つけてはそのプリントの束をめくり、内容を頭に叩き込んだ。
学生時代はいつもテスト前にはこうやってきちんとノートをとっている人のコピーをとらせてもらい助けられたものだ。
たまちんのメモはとても役立った。強調されているところは、全て私に必要なところばかりだった。
とくに目が釘付けになった一文がある。
「障害となるのは、心理的な部分で、私たちがモノに人格を与えたり、自分自身を投影してしまったりすること」だという。
なるほど。
これだな。
ネックは。
モッタイナイお化けじゃない。
これだ。
「もし私がモノさんだったらどう思うかしら?」
「こんなふうに捨てられたらどんなにみじめで可哀そうかしら」
「人にされていやなことは相手にもしちゃいけない。」
「だから私はあなたとずっと一緒」
「だから私はいいひと」
ってな論法だろう。
だから私も捨てられなかった。
自分がこんな風に捨てられたくなかったから。
薄情ではない、いいひとでいたいから。
なんとか絆さえ保っておけばいい。
でも、冷静に考えてみた。
モノは人じゃない。
ましてやモノは私じゃない。
この穴の開いた靴下は私じゃない。
いやまてよ、百歩譲って人だったとしよう。
この靴下が、開放的で風通しの良い涼やかな私だったとしよう。
そして、いつまでたってもパートナーがどこかに行ったきり戻ってこない、これらの色とりどりのシングル靴下たちが、私の個性豊かな女友達だったとしよう。次の洗濯ではきっと戻ってくるに違いない、それがだめならまたその次と信じて疑わず、何年も何年も相方の帰りを待つ、そんな一途なアラフォーの女友達だったとしよう。
みんな大切に扱われているのか?
捨てられなかったからといって、大切に愛されているのか?
無視されたまま、何年も、または何十年もキープ。。。
それでいいのか?
「安心しな、捨てねーよ。でもそのすみっこでじっとだまっててくれよな。埃かぶってカビ生えて、そのうち忘れるかもしれねーけどよ。。。でも捨てはしねーからよ。それがおめーの望むもんだろ?」
いやだ。。。
そんなの絶対いやだー!
そんなことされたら呪ってやるー!
大切にしてくれるのか、他の大切にしてくれる人に譲るのか、もうこれっきりなのか、はっきりさせてよ~!
キープなんて絶対いやだー!
彼女たちの悲痛な叫びが聞こえた。
明日は大みそか。。。
断捨離決行
思いっきり捨てました。
でもまだまだ先は長いです。
やっぱり書類系は大変です。
学会誌とか配布資料とかどうしてる?
捨てちゃったら「アカデミーへの冒涜だーっ」て声が聞こえてきそうよ。
ま、結果は見えているのだけど、最後の悪あがきしとります。
あたしも今年から断捨離の本を読んで
少しずつ実行している者です。
段々部屋がスッキリしてきて、やっぱりメンタル的にも影響が出てきて、やってよかったなと思っています。
上記の穴の開いた靴下とか、キープとか、物を人にたとえたくだり、面白かったです♪
あたしも頑張ろう♪
そう、モノと人との関係は本当に良く似ているんですよね。
私も未だに下着一枚、靴下一枚捨てるのは心苦しいですよ。
でも最近ではちゃんと使い切ってからの捨てることが多いので、罪悪感も少ないです。
寂しい気持ちと、ありがとうの気持ちを大切にモノたちに卒業してもらっています。
最初はチマチマやっていたのですが、なかなか片付かない。そこで今回、23日までにと期限を切って、一気にやってしまうことにしました。
今日はクローゼットの半分を。とてもお気に入りだったはずなのに、いつしか存在を忘れていたTシャツが発見されたり。
でも、ものが少なくなるって本当に風通しがよくなるんですね。これからも頑張ります。