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かって、社会主義の国「ユーゴスラビア連邦」があり
チトー大統領のもと多民族国家として存在していたが
同大統領の死去とソビエト連邦の崩壊で民族独立の気
運が広がった。
1991年にスロベニアが独立、続いてクロアチアが
独立する。これに対して連邦政府と連邦軍が独立阻止
に動く。そして共和国軍との間で戦闘が始まる。
連邦政府の実態は、連邦首都ベオグラードのあるセル
ビア共和国大統領ミロシェビッチらセルビア人により
牛耳られていた。
従って、この紛争はセルビア人とそこから脱却を図る
各民族の争いという構図になっていた。スロベニア人
のスロベニア共和国とクロアチア人のクロアチア共和
国は、単一民族国家として独立した。
残ったボスニア・ヘルツェゴビナは四割強のモスレム
人に隣国セルビア共和国と同じ民族のセルビア人が三
割強にクロアチア人が二割弱いる多民族国家の様相で
あった。
モスレム人は中世からこの地に住んでいて、オスマン
トルコの支配地でキリスト教からイスラム教に改宗し
た人々の末裔で、このボスニア・ヘルツェゴビナ以外
に行くところのない人々であった。
1992年にモスレム人の数の力で国民投票。ボスニ
ア・ヘルツェゴビナの独立を宣言、これに第二勢力の
セルビア人たちが反発し連邦政府や議会から出て行き
クロアチア人もこれに倣った為、モスレム人の政府に
なってしまった。
しかし、軍事的に優位なセルビア人と対等には戦えな
い。首都サラエボで起きたデモ隊発砲事件から戦闘が
起きる中、時の外相シライジッチ氏が単身、西側先進
国を巻き込んでセルビア人武装勢力に対抗すべくワシ
ントンへ向う。
最終的には四年間の戦闘で、十万近い死者を出し、国
内に民族相互の不信を残したが、圧倒的に優位だった
セルビア人の軍事力を西側の勢力を使って相殺する事
に成功した。
今読みかけの本の紹介です。情報を上手く使えば武力
に劣って居ても、勝てる可能性を示した「ドキュメン
ト戦争広告代理店」今日本はこれをやられているので
はないかという一冊です。
※ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はこちら!