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日々雑感

日々の生活での感想。人間関係。理想。スポーツ。科学。色々と。

いい所を伸ばす

2023年05月19日 13時36分36秒 | 自由空間
人間には得手不得手がある。

自己分析してそれらが判断材料として浮かび上がり、今後どうするかを考える機会があったとする。

この時に、私が思うベターな判断は、

得意を伸ばす、若しくは、得意な事をし続ける 事だと思う。

不得意な事をやる事によってバランスを取るという判断、不得意な事を克服していこう という判断はベターではないと思う。

肝心な点としては、”不得意”や”苦手”という意識をもっている状態ならやらない方が良いと思う。

私が今思う理想は、
得意な事、好きな事をやり続けていくと、どこかで飽きが来る、若しくは極める。その状態まで来ると多分それをする事の楽しさはかなり少なくなっていると思う。
何故なら向上や成長を感じる事、未知を体験する事が楽しい事だと思うからです。

そうなると、不得意だったものは、不得意なまま、未熟なままそこに残っており、成長の伸びしろとしてはこんなに大きな所は無いという事になる。やれば大幅に成長できる という認識が持てる。
そうなったとき、不得意を克服するという意識ではなく、失敗ですら楽しい、未熟が楽しい、成長に繋がるのが嬉しい という状態になり、自分から進んでそこに時間を費やす様になると思う。

やはり、楽しさと共に自発的にする事が大事であり、嫌な事を嫌な事と認識しつつ続けても沼にはまっていくだけな気がする。

ー 自分の生活の中で気が付いた事です。もし読んでくださった方が共感し、それが現在や今後の生活の役に立ったなら幸いです。 ー

楽しい事だけを考えよう。

2022年07月26日 02時48分08秒 | 自由空間
生きていると色んな事がある、嫌な事や不快な事も多いかもしれません。
そういう気持ちにさせる事象はずっと続くとはいいがたく、大抵の場合は、その出来事が起こった瞬間の気持ちを引きずっていると言えるでしょう。

折角の自分の時間、自分の人生、嫌な事や嫌いな人の事を考えるのは勿体無くないですか?
本人がいる時に気をそらす事は難しいかもしれない。
本人がいない時にその人の事を考えるのは・・・時間が勿体ないと思う。

同じ時間なのだから、楽しい事、嬉しい事を考えた方が良いと思います。
現実逃避に聞こえるかもしれませんが、楽しい事を考えているいい状態で人や出来事をもう一回見直してみるのです。
もしかしたら引き戻されてしまうかもしれないけれど、
楽しんでいる状態で見直してみると全然大した事ない物に見えると思います。
その乗りで乗り越えてしまえば良いのです。

逆が必要?

2022年07月25日 19時07分32秒 | 自由空間
幸せは不幸せ無しに体験できない。
不幸せは幸せ無しに体験できない。

有る状態を体験したかったら、無い状態にならないと”有る”を体験する事は出来ない。

それはある意味本当かもしれない。

それはつまり・・・願えば願う程、”無い”状態を体験する事になるかもしれません。
何故かというと、”有る”体験は、”無い”状態にいないと体験できないから。

だったら、願うよりも先払いで”有る”事を感謝した方が良いかもしれませんね。

ポジティブシンキング

2022年04月05日 00時30分58秒 | 自由空間
物事を前向きにとらえる事をポジティブシンキングという。

何でもかんでも前向きに考えて感謝しようという風に使われる事もあり、
病気になって入院しても感謝感謝みたいな、ある種皮肉なイラストもあったりする。

その皮肉なイラストを見た時、最初は私も そうだよな、ポジティブシンキングが良いとはいえ、悲惨な現実に対して感謝感謝って変だろう、って思っていました。

今は、少なくとも皮肉なイラストの皮肉は、そうではない、とわかるようになった。

悲惨な現実は悲惨でしかありません。怒る様な状況かもしれませんし、悲しむような状況かもしれません。

どちらにしても、それを笑い飛ばせるというのは相当人間が出来ているという事でしょう。
普通は出来ないです。

ただ、どうしようもない現実に対して悲しんだり怒ったり、それで解決しますか?しません、という事です。

そこで第一段階として、そこから心を離す事、別の事を想像し、嫌な現実から逃げちゃえばいいのです。
それは全然OKな事です。泣いたって怒ったって解決しないのだから。

泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、弱り目に祟り目
笑う門には福来る、和気財を生ず

だから、落ち込んでいるぐらいなら、他事考えて笑えばいいのです。
悲惨な現実に対して笑うのではないのです。忘れて他事で笑顔になるのです。

それでポジティブシンキングと言えると思いますが、そこから更に踏み込むのです。


泣いたり怒ったり、これはその現実を自分は望んでいない という証拠だと思います。

だったら自分は何を望んでいるのか?それは、その現実の逆です。逆を望んでいるのです。

では逆とは何か? ”病気”の逆は、”病気の無い状態”ではなく!、病気の逆は、”健康”です。

病気になった時、健康を想うのです。
お金を失った時、お金で体験できる贅沢を想うのです。
人間関係が上手く行っていない時、自分が思う理想の人間関係を想うのです。

想う、
ここでのそれは、志望校に合格して、丁度今の時期の様に、入学式を控えて新生活を夢見る様なものです。
新発売のゲームをお店で買って、それを持って帰る家路の時の気分です。
旅行の計画を立て予約をし、その出発日を控えた時の気分です。
デートを申し込んで、Yesの答えを貰い、二人で一緒に出掛けている時を想像する時の気分です。

これらの事は、ある願望があって、それが現実になりそうな時に強烈に発生する想像・妄想です。
なんて幸せな時間だろうと思います。

では不幸は?不幸が起こったらどうするのか?
それは、不幸は願望の母だという事です。

先程書いた、”ある願望があって・・・” 
この願望はどこから来たのか?

願望は不足を認識した時に発生したと言えます。

つまり、病気になって健康を失った、その瞬間に”健康”への願望が生まれます。

健康を失わなかったら? 健康じゃん! ってそうなんだけど(笑)
でも、そこが人間の有難くも悲しい話で、失って初めて気が付く有難さ、というものです。
それまでは、無意識に健康を維持していたのです。

私の場合で言えば、実家を出て一人暮らしをするまでは、親の苦労と有難さがわからなかった、当たり前だと思っていた物は当たり前ではなかった。無くして初めて理解できた。

別の例えにしましょう。
小学校で、50m走、一番だった。
自分はこれ以上速くある必要はなかった。一番だから。これ以上速く走る願望は生まれなかった。
中学校に入った。50m走で自分より速い人がいた。敗北した。悲しい、悔しい、、

ここで選択の分岐点が発生します。

敗北・悔しさ という現実の中に残るか、
もっと速く走りたい、という願望を持つか

敗北という現実に残っても何も生まれないでしょう。そのままです。
願望を持つか、もしくは、別の路線で行くという決断をするかだと思います。

ここでは、願望を持つ で話を進めます。
願望が無かった所に願望が生まれた。
その願望の発生により、過去の自分よりより速く走る事が出来る可能性が発生した。
成長出来るという事、それは嬉しい事であり、その成長のきっかけは、敗北した事で生まれた。
つまり、自分より足の速い人は感謝する相手だといえる。

もっと速く走りたいという願望を持った時、どうするのか?
答えは、もっと速く走る自分がこれから生まれるのだと思って心を躍らせればいい。
これは、デート前の心境、志望校に受かって楽しみな新生活の直前の心境、これらと同じだと言える。

これこそがポジティブシンキングだと思う。
悲惨な出来事は、自分が何を望むかを明確にしてくれる。
過ぎた事を思い続けても前進できない、何も変わらない。
生まれた願望に向かって、それだけを考えて、その成就を向かえて心を躍らせて日々生活すれば、こんな幸せな事はないし、理想の現実を想い続けたら、それは間違いなく実現する。

汚いから掃除をするのではない。

2022年03月23日 12時07分00秒 | 自由空間
部屋が散らかっている時に掃除をする。
この時に、掃除という行動をするのであるが、

部屋が汚いから掃除をする
汚くない状態にする為に掃除をする

としたら、それは 部屋を綺麗にする という目的に対して正しい動機とは言えない。

この場合、

綺麗な部屋を得たいから掃除をする
整頓された状態を得る為に掃除をする

だから掃除をする。
これが正しい。

綺麗な部屋を見て清々しく思う自分を想像すればそれが1番だろう。


私はこれは同じ事じゃないかとずっと思っていた。
でも違う。この動機は真逆と言えるほど違う。
どの様に思おうと掃除という行動をしたなら綺麗な部屋という結果は確かに得られる。
しかし、前者はリバウンドを起こして元に戻り、後者は永続する。

嫌な人は感謝する相手

2022年03月17日 19時40分27秒 | 自由空間
自分の願望を明確にする事について前回まで書いてきた。

自分が嫌だと思ったり不快に思う様なネガティブな事象が起こった際、その出来事はただ単なる嫌な出来事や不運ではなくて、自分が何に快適な気持ちを持つかという事を明確にしてくれるイベントだという事である。
だから、喜怒哀楽の怒りや哀しみを覚える様な出来事というのは、実は自分自身を知る事が出来るラッキーイベントだと言える。
そして最も大事なのは、その嫌な出来事に意識を集中するのではなく、自分が好む出来事に意識を集中する事である。

その流れで行くと、嫌な事をする人、嫌みな事をする人、意地悪な事をする人、というのは、普通?に考えたらただ単なる酷い人なのであるが、その人の行動によって自分が何を求めているのかがより強く明確になるのであれば、それは大変素晴らしいイベントと言える。
だから、嫌な事をする人 というのは、感謝してもいい対象だと言える。
大いに感謝しよう。(実践するのは難しいけど。。。)

人の振り見て我が振り直せ である。

考え方の微妙な違い

2022年03月15日 11時05分26秒 | 自由空間
何かが起こった時、我々は瞬間的に色々な事を思う、感想を持つ、という表現の方が良いかもしれない。

そして、人によっては、その出来事と自分を比較する。


例えば、あるデザインの服を着ている人を見たとする。
そこで、そ、それで?、と終わる事が出来るのならこの出来事は関係がない。

1)そうそう、ああいうのが私も欲しいのだよね と思ったとする。

ここで次に、では私はそれを得る事が出来るのがどうかの検討が始まる。

1.1)出来る!今度買いに行こう! これで終わり。

1.2)出来ない。お金ない。
この後分岐が起こる。
1.2.1)買いたい。お金無いからお金貯めよう。
1.2.2) お金が欲しい。お金があればあの服を買える!買ったらああしてこうして・・・

この二つは似ている様で大きく違う。
最初のは、お金が無いから貯めないといけない、つまりお金がない に意識が集中している。
後のは、お金を得たと想像してあれを買った自分の姿もしくは買う時の自分に意識が向いている。

出来ない理由を探し、その理由に意識を持つのではなく(この場合、お金がない)、

お金がないという現実は、お金が欲しいという願望を誕生させる。
その願望が達成された時、何が自分に提供されるのか、何という経験が自分に訪れるのか、そちらに意識を向ける。

この違いは大きい。

でも、結局お金無いじゃないか、現実は一緒でしょ!と思うかもしれません。

無いから(欠乏しているから)よーしやるぞー、
こんな明るい未来が待っているから よーしやるぞー 

これは異なる。他人の目、外部から見た時、外目には同じに見えたとしても、「よーしやるぞー」は同じだとしても、
本人の中の意識は全く違う。


では、また最初に戻り、
2)いや、あの服は私は嫌い と思ったとする
ここで分岐
2.1) 何が良いのだろう。理解できない。見るのもちょっと不快だな。
2.2) あれは私の好みではない。私の好みはこっち。

前者は、自分の好みでない物を意識している。
後者は、自分の好みの物に意識を転換している。

これは全く逆の動きと言える。

そう考えると、日々の生活は本当に忙しい。
自分の感情の観察が最も重要な事になる。



恋は盲目?

2022年03月11日 10時25分01秒 | 自由空間
恋は盲目、という。

回りの事が見えなくなり、その相手に没頭する事である。
周囲にいる人は、その人を感情抜きで見る事が出来、そのトータルの観察の結果、

「その人、そんなにいいかな?」

みたいな事を思う。だから恋は盲目というのは悪い意味でつかわれる事が多い。

もしくは、恋は一時的な物だから、今はそこに熱を上げてしまって何も見えないかもしれないけれど、
熱が冷めてきた時、今まで見てきたものとは違う現実が見えるかもしれない。その時にも熱のある今と同じ判断が出来るかしら?
という感じでやっぱりどちらかというと良い印象ではない。

恋は盲目

確かに、その状態がずっと続くなら本人は幸せだと言えるだろう。それが続くなら。
でも続かない。。
人間誰しも長短がある。得手不得手がある。違いがある。

その人の良い部分ばかり見ていられるなら、その人は当人にとってずっと良い人だろう。
でも、その人の悪い部分ばかり見ているなら、その人は当人にとってずっと悪い人だろう。

精神が冷静な時、その良い部分も、悪い部分も情報として入ってくる。

そこでどうするのか?

恋に落ちている時は良い部分しか見ていないかもしれないけれど、
普段の時は、冷静と言いつつもその人の悪い部分ばかり見てしまっていないだろうか? 良い部分も見る事を忘れてしまっていないだろうか?

実は ”逆の盲目” つまり、欠点ばかり見てしまう盲目に陥っていないだろうか?

ここまでずっと長短とか、良い点、悪い点みたいな話をしてきたが、良いも悪いも実際に存在しているのはそれを見る人の心の中にあるだけなのだ。
いいなって思う。嫌だなって思う。それは全部それぞれの人が思う事。人それぞれ。

では、ここで選択の機会が訪れる。
良いなって思う事を見続けるのか? 嫌だなって思う事を見続けるのか?

盲目的に、「あの人のあれがねー」とか「あの人のあの行為はー」とか、もしかしたらなってしまっているかもしれない。

選択出来るなら、その人の良いと思う点ばかりを見たい。

嫌な点がどうしても見えてしまい、それに対して思ってしまうなら、せめてその数と同じ数だけ良い点を見つけて、

「あの人のあれはどうかと思うけど、この点は良いよねー」

とセットで思う。いい点で感想を終わらせる。
そんな風にありたいものです。


想いを正しく持つ

2022年03月09日 11時01分48秒 | 自由空間
最初、自分は全てが満たされた場所にいた。
しかし、どうして満たされているのか、自分がそれを持っている事を認識してはいなかった。
兎も角、幸せだった。

普段の生活で、ある出来事が自分をその場所から飛ばした。(実際に飛ばしたのは自分自身だけれども)

その時、心の中に不快感が発生する。嫌だという感情、怒り、嫉妬、不快感、そういった類の感情。
その時、自分は認識する。これは嫌だと。

ここで選択が二つに分かれる。
選択1、その不快な出来事を認識し、それは不快だと明確に思う。”そして思い続ける”。 
認識をした時点で、それは自分に起こっている出来事であり、現実であると受けいれている。
”思い続ける”とその現実を肯定し続ける。

選択2、不快な出来事が発生した時、その不快感という感情を認識する。それは不快だと、自分の望むものではないと明確に思う。”そこで逆を思う”。
最初に書いた様に、満たされた場所にいたとしつつも、それを認識していない。
その満たされた場所から外れた時、つまり、不快感を発生させた現象を見た時、”それは嫌い=逆の事が好き” と意識的に判明する。自分の好きな物がわかる。
(人によってはこれは極端かもしれない。ただ、少なくとも ”これ”は嫌い=好きな物は”これ”以外の何か、と判明する とはいえるだろう。)
”好きな物が判明したので、それを思い続ける”。

この選択の2を実行する事が大事なのである。
多分、私達は、最初の段階で自分の願望を知らないのだと思う。
そこで、日々の生活がカタログとして働く。
色んな人に出会う、見る、出来事を経験する、自然を見る、美術品を見る、技術品を見る。
その一つ一つに対して、我々は何かしらの判断をする。好き、嫌い、どうでもいい。その意識・無意識の判断を意識的に観察すれば、自分が何を快適に思い、何を不快に思うかがわかる。
そこで自分が何を願望として持っているかが判明する。

持っていないもの、欠けている物、それは不快感として現れるかもしれない。
でも、それは自分が何を望んでいるのか、何を持っているのかを教えてくれる重大なヒントなのだ。有難いイベントなのだ。

自分が何を求めているのか(正しい想い・願い)がわかったら、それを思い続ける。
それが正しいあり方、想い方である。

願いを持つ、という事は、現実としてそれが欠けている といえる。
だからといって、欠けている事を思い続けるという事は、その現状を肯定し続ける事になる。

欠けているといっても、それは少ないだけの話であり、持っているのである。
不快な出来事(自分の願望が判明する出来事)を経験して、ない、ない と思うのを転換させて、
今、現状で持っている物を、ある、ある、自分はこれが好きだ、と思う事が大事なんだと思う。

例えば、テストで70点だったとする。
それで幸せに思い、満足ならそれでいいのである。
よーし、次は80点取るぞーと思えるなら、それもOK。
70点であった事を悲しく思ったなら、自分はもっと点を取りたいという願望を持っている事が判明したという事なのだ。
それが判明したのなら、そこから先は悲しく思う必要はない、点がないと思う事もない、負の感情は願望を明らかにした時点でその役割を終えた。
70点取った事、70点ある事を大切に思おう、喜ぼう、そして70点が75点、80点と上がっていく事を思い描こう。

それが想いを正しく持つという事だ。


職人とクリエイター

2022年02月22日 02時30分53秒 | 自由空間
何かを極める。こういった事を言う時、一般的にはクリエイターという意味を含む様に思う。
これはある意味もっともだと言える。
何故なら、極めた人というのは、その道に精通している。精通しているからこそ、そこから未知の領域に入っていくことも出来る。
既知か未知か、それがわからなかったら既存か新規かもわからない。だから、極めた人間はクリエイターとしてあり得るという事である。

でも、これは厳密には違う。
極めた先にあるのは、職人かもしれない。物知りという意味で○○博士かもしれない。

○○なら彼・彼女に任せろ、
彼・彼女は生き字引、

等々、こういった言い回しで言われる場合、既に存在する技術なり知識なりについて物凄く詳しくて、それを使いこなしている事を意味する。

クリエイターは今ある領域から外れたものを作り出していく仕事をする。
これは根本的に異なる作業である。

前者が、かるたで滅茶苦茶早く取れるプロなら
後者は、かるたの新しいカードを作る人、しかも新しいひらがな 

という事になる。
どちらが・・・という話ではなく、これらは異なっていて、認識を変える必要があると思う。

岡本太郎さんが言う”芸術家”というのは後者に当たる。
新しい道を作っていく作業であり、常に闘い続ける必要がある言う。

それは、今あるものを認めつつ同時に否定する という作業を連続して行う事である。
そうしなければ今あるものに安穏としてしまい、道を切り開くことが出来ない。

こういうのは学校では教えにくい事なのだろう。