goo blog サービス終了のお知らせ 

名前のない足跡

独り言や思考の日記。

心の澱 2

2025-01-01 16:42:00 | 日記

前述の記事の続きになるが、それは間違っている。

他者からすれば、私が無意識のうちに誰に不快な気持ちをさせる事もあるしそれは他者にもいえる事だ。

私は今までの人生で、神を呪ったこともある。

「神よ、なぜ私に生を与えたのか、ならば死を与えることもたやすいことではないのか」と。

私を無駄に生かして何になろうかと。

聖書には「神の成す御業を疑ってはならない」という有名な一説がある。

疑うことは罪なのか。

過去に、何度も自らの手で命を絶とうと思ったことがある。

実際に実行にうつしたが、ことごとく失敗し、無駄に生きながらえてしまったと思った。

一つだけ見えてみた真実がある。

「死ぬ事という行為はいつでもできるのだから、くだらない」という事である。

でも、もし殺されるならもっとも愛しい人の手で苦しまずに息絶えていきたい。

「どうかあなたの手で殺して下さい」という台詞をよく見かける。

これはもっとも甘美な愛の告白だ。

死を通じて、愛しい人の手で絶たれるならそれが一番強く愛を感じられるからだ。

ところで、大晦日にイングロリアス・バスターズを観た。

好きな映画の一つなので久しぶりに観たが、ショシャナは復讐だけではなく彼女は間違いなく立派なレイン中尉の部隊な「バスターズ」の一員だ。

あれだけ優しさが見せかけだったフレデリックも結局はナチスに過ぎなかった。

レイン中尉のやっている事はただの快楽殺人鬼にしか見えない人もいるだろう。

しかし、あれこそが戦争の醜さであり「一生脱げない軍服を刻んでやる」と額にナチスの印を刻んで殺しもせず解放するのは「自分もお前もナチスであろうがなかろうが同じなのだから戦争という名目で人を殺しているのだから関係ない」という気持ちなのではないかと思った。

レイン中尉は、己の罪と一生向き合ってほしいと願いがある。

戦争にかかわらず、「許しと優しさ」だけで済む絵物語なら、世界はとっくに変っているだろう。

シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」が読みたくなったのはなぜだろう。

「オルガスマシン」を注文したばかりなのに。

「カトリック聖人列伝」も読むのもいい。

とにかく読みたい本がたくさんある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の澱 1

2025-01-01 15:32:52 | 日記

年末は最悪な事もあり、半分じゅくじゅくとした膿のようなものを抱えたまま大晦日をすごしましたが、無事にこのように新年を迎えられてうれしく思います。

そのせいで、せっかくの年越しそばも半分美味しくなかった。

父が優しい人である事に改めて感謝をした。おそらく、父は私がメンタルヘルスの調子があまりよくない事に気付いていただろうから。

一番は、何も聞かずにいてくれた事だ。

父の誕生日にはお返しで、何かプレゼントしようと思う。

彼と交際をはじめてから、自分の過去を振り返ってみる事にした。

はっきりいって、私は最低最悪な人間だ。

私の心の中にはいつも、「自分のせいで相手に嫌な思いをさせた」という自責思考があると同時に「なぜ神は私を生み落としたのか」という他責市思考も同時に存在している。

他責思考は世間では責められる未熟な考え方だ。

しかし、他責思考にする以外に何があるというのか。

例えば昨年起きたマクドナルドの店内で無関係な未成年が殺される殺人事件が起きた時、悪いのは何の罪もない未成年を刺殺した犯人の男だ。

これは完全に、男が悪いのが明白だ。

何も罪のない人間が責められられ、追い詰められた時なぜ人は自分のせいにするのか。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする