gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

三島由紀夫の「切腹」 その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する (その二)

2020-08-31 15:10:08 | 日記

"ブックサーフィン"という愉楽――あるいは書淫

 天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走

 

第一部

三島由紀夫の「切腹」  

その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する

 

その二

 

三島は切腹はしたものの、ザッハリッヒな観点からは、それは自裁でも自刃でも自殺でもなかった(注 1)。そして、三島は死を覚悟していたにせよ、己が手で己が命を絶つと固く決意してはいなかったと推測し得るし、従って、そう試みることも、恐らく、しなかった、あるいは、そうしようとしてもそうする余力は残っていなかった。

風に吹かれて行き当たった「解説/間羊太郎『切腹の作法』教えます」(「週刊ヤングレディ」、1970年12月14日、第49号、140--141頁)を読む。

切腹のやり方は、短刀を腹の左につきたて右にまわしてひきぬく。その長さは十五センチ、深さは一.五センチ、なぜなら脂肪層は三センチほどなので、あまり深くさすと腸にふれてしまい短刀が動かしにくくなるので……。
(「……。」は原文のまま。引用者による省略ではない)

切腹が、それを実行する当人の死に最終的に結び付くものならば(必ずしも直結はしない)、肝心なことがまだ述べられていない。この記述はまだ続かねばならず、実際、更に以下のような記述が続く。

腹だけを切って死ぬのは非常な苦痛をともなう。しかも一両日は死ねない。そこで、腹を切り終わると同時に、介錯人がいる時は首を落とし、そうでない場合は、自分で頚動脈を切り、それによって死ぬのである。(同上)(注8.15)

作法が重んじられたのは、刑罰としての切腹のときだ。(同上)

切腹にさいしては、検使、介錯、添介錯、小介錯が登場する。(同上)

戦後、精神異常者めいたのが何十人も腹を切って死のうとしたが、いずれも一日以上苦しんで死んでいる。首をおとされ、切腹による死亡は、今回の三島由紀夫がはじめてである。(同上)(注)8.15

「切腹による死亡は、今回の三島由紀夫がはじめて」なのは、刑罰としての切腹(介錯人が用意される)は1873年(明治6年)に廃止されているのであれば当然のことである。

女性向け週刊誌の記事だが、「自裁としての切腹」及び「刑罰としての切腹」について、概ね妥当な概略的記述がなされている。ただ、「短刀を腹の左につきたて右にまわしてひきぬく。その長さは十五センチ、深さは一.五センチ」という記述には《テクニカル》な問題点があることに、江戸時代の武士でさえ気付くものはわずかであろう(注)tech。また、「あまり深くさすと腸にふれてしまい短刀が動かしにくくなる」という箇所には、以下に述べるように医学的観点からの注釈が必要であろう。

今の時代はもちろん、武士の時代においてさえ、切腹について知るべきほどのことを知る人間(武士)はきわめて少数であったと考えられる。ましてや「自裁としての切腹」をそうあるべきように為し得る武士など。

当日(1970年11月25日)夕刊の見出し

「三島由紀夫が自衛隊に乱入 演説して割腹自殺」(朝日)

「三島由紀夫が割腹自決」(毎日)

「三島由紀夫、自衛隊(市谷東部総監部)で切腹」(読売)

26日の「赤旗」の見出し。  

「反共・ファッショ化を挑発――三島由紀夫らの自衛隊乱入 "改憲・治安出動"叫ぶ 楯の会会員と総監を監禁、割腹自殺」

「割腹自殺」も「割腹自決」も不適切な表現。読売の「切腹」は見出しに限れば適切な表現といえるが、無論まぐれ当たりでしかない。

三島の遺体の「解剖所見によれば、腹部(合理的な理由があって下腹部である)の「左から右に真一文字14センチの切創」についてはさておき、「深さ4センチ。左は小腸に達し」という傷があったとすると、このことから三島は自らの手で決着をつけるのではなく、介錯を恃んでいたことが窺える(上記「解説/間羊太郎『切腹の作法』教えます」の記述参照。更に以下の記述参照)。その腹の割き方は、割腹による《意志的な死》を目論んだ行為、即ち自裁としての切腹たりえないと言っていい。

 


解剖所見」(ウィキペディア「三島事件」より)

慶応義塾大学病院法医学解剖室において、三島の遺体は斎藤銀次郎教授が、森田の遺体は船尾忠孝教授が解剖執刀し、その検視によると、二人の死因は、腹部の切創ではなく、「頸部割創による離断」である。

頸部は3回は切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。

 


「刑罰としての切腹」には伝承的作法がある。しかし「自裁としての切腹」には伝承的作法さえないのだが、その目的が割腹による《意志的な死》である場合、その目的を完遂するために必要な《合理的な腹の切り方》というものは、これをも作法というとすれば作法は存在する。いずれの作法に照らしても「三島の切腹のザッハリッヒな"sachlich"(英"factual")有り様」は異様さが際立つ。

何ゆえに異様かといえば、

古来、切腹をする側が介錯人を同伴して行くなどという事は、作法にもなければ前例もないからである。
(矢切止夫、三島由紀夫追悼文「切腹の美学」『新評 臨時増刊 全巻 三島由紀夫大鑑』1971年1月25日発行、所収、209頁)
(注)矢切止夫 1914年12月22日~1987年4月28日

「介錯人」が用意されるのは「刑罰としての切腹」の場合であり、「検使、介錯、添介錯、小介錯」を用意するのは処罰する側であり、腹を切る側ではない。

次いで「深さ4センチ。左は小腸に達し」の意味合いを考える。

現在の法医学の臨床データでは、
「第一の動作つまり異物を皮膚下に突入させた時点に於て八十三例中八十例までは、喪心又は失神状態に陥るものである」とされている。
(矢切止夫『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版所収「切腹論考」、10頁)

文句なしに面白くも刺激的、ときに痛快でさえある上に、11月25日以前にすでに三島の机の上にあったという証言もある10月31日初版発行のこの『切腹論考』については後述するが、よく言えば融通無碍、批判的に言えば大雑把で不正確な引用をためらわない矢切の記述だけでは心もとなく思えないでもない。

そこでウィキペディア「三島事件」の〔注釈12〕によると、

慶応義塾大学病院法医学解剖室教授・斎藤銀次郎(当時)による1970年11月26日の解剖所見の三島の切腹傷のように、ここまで腹部に深く短刀を突き刺した場合には腹部内臓に分布する血管迷走神経を刺戟して血管迷走神経反射を起し、血管の拡張により脳血流が保てなくなり失神に陥る。さらに瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直により両脚が伸びきり、そのために上体は前のめりになるか後ろにのけぞってしまう。だから切腹する者の傍らに押さえ役を配しておかなければ到底介錯することはできないのである。

同じ〔注釈12〕には、

1971年4月19日の第二回および同年6月21日の第六回公判記録によれば次のように記録されている。「右肩の傷は初太刀の失敗である。森田必勝は三島由紀夫が前に倒れると予想して打ち下ろしたが、三島が後ろに仰け反った為、手許が狂って肩を切った。次の太刀は、三島が額を床につけて悶えて動いている所を切らねばならないため首の位置が定まらす、床と首の位置が近いから床に刀が当たってなかなか切断できない。結果、森田に代わって古賀正義がもう一太刀振るった。」

ここで述べられている三島のある種の七転八倒振りは、『憂国』の武山信二中尉の割腹場面(注)yukokuを想起させる。中でも注目すべき記述を二箇所指摘しておく。そしてこの二箇所については次のような伏線がある。即ち、「介錯がないから、深く切ろうと思う。」(『英霊の聲』河出書房新社所収「憂国」88頁)と「中尉としては、どんなことがあっても死に損なってはならない。そのためには見届けてくれる人がなくてはならぬ。」(同書、74頁)である。

腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどいきいきとした姿で、嬉嬉として辷り出て股間にあふれた。(同書、93頁)

中尉は自分の血溜りの中に膝までつかり(同上)

これは自裁としての切腹ではなく、実質的に介錯の役を果たすのは若妻である。

割腹による《意志的な死》を自らの手で完結させるには、即ち自らの手で自らに止めを刺すのに必要な余力を残すためには、「深さは一.五センチ」(あるいは更に浅く)という条件は極力満たされねばならない。なぜかといえば、「あまり深くさすと腸にふれてしまい短刀が動かしにくくなるので」(「解説/間羊太郎『切腹の作法』教えます」)というよりむしろ、深く刺さったままの短刀を動かしにくいと意識し、ひとまず短刀を殆ど引き抜き、その上で右に浅く引き回して割腹をやり遂げたあと(割腹だけでは自裁は完結しない)、短刀の柄を床に押し当て、切っ先を喉頸にあるいは心臓に打ち込む、あるいは短刀を握って頚動脈を掻き切る、といった一連の意識的(あるいは無意識的)動作を行えるだけの余力を残すには、もはや手遅れでしかないのだが、時を遡って、自身の肉体の制御を困難にしかねないほどの深さまで短刀を下腹部に食い込ませないことにするしかないのである。

矢切止夫は、大正元年九月十五日付『国民新聞』に掲載された、乃木将軍の切腹にさいし行政検視に立ち会った当時の赤坂警察署本堂署長の《証言》を引用している。

二階八畳敷で夫人を左にして将軍は、まず上衣をぬきシャツのみとなって正座し、腹下左の横腹より軍刀を差し込み、やや斜め右に八寸切りさきグイと右へ廻し上げて居られた。……これは切腹の法則にあい実に見事なものだった。而して、返しを咽喉笛にあて、軍刀の柄を畳につき身体を前方に被ぶせ首筋を貫通、切先六寸が後の頭筋にで、やや俯伏になって居られた。
(「切腹論考」9頁)(「……」は原文のまま)

ウィキペディア「乃木希典」には以下のようにある。

警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。(注2)

乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。

「切先六寸が後の頭筋にで」は「切先六寸が後頭筋に出」であろう。切尖六寸が後頭部から突き出ていたということのようである。乃木将軍は自裁としての切腹をやり遂げたことになる。そしてこんなところでも矢切の語りの縦横無尽ぶり(言いたい放題)は発揮される。十頁ほど先には、

乃木将軍のような意志の強い人は、出血多量による死をもって切腹という行為をなし得ても、普通はその真似はできず介錯といって背後から頚動脈を切断することによって、つまり首をはね落されて死なされているのである。(「切腹論考」20頁)

「軍刀で首筋を貫通、切尖六寸が後頭部から突き出ていた」(岩田凡平が推測したように、即死、であったろう)という『国民新聞』の記事を引用したのは矢切であるが、その舌の根も乾かぬうちに、今度は、乃木将軍の死因は「出血多量による死」と語るのである。この手の齟齬を矢次は歯牙にもかけぬようである。

本堂署長の《証言》中の「これは切腹の法則にあい」については、乃木将軍の腹の切り方の何処がどのように「切腹の法則にあっている」のか、本堂署長自身も認識できてはいないであろう。「八寸」切りさいたとあるが、深さについは触れず、必然的に出血量についてもふれていない。内臓が飛び出していた、というような記述もないのは、切創は内臓が飛び出すほど深いものではなかった、即ち浅かったことの裏返しである。「己の手で己に止めをさせるだけの余力を残すために、斜め右に浅く八寸切っている」という乃木の腹の切り方こそ、「自裁としての切腹」のいわばあるべきあり方なのだが、「自裁としての切腹」の法則など伝承されていない以上、これは「切腹の法則にあっている」という認識の成立する道理はないのである。

介錯(人)を恃む場合、短刀を過度に深く下腹部に食い込ませた結果、身体の動きを制御できず「上体は前のめりになるか後ろにのけぞってしまう」という事態が生じると、一刀のもとに首をはねるという円滑な介錯(従って速やかな死)は極めて成立しにくくなる。要するに、下腹部に当てた短刀の切っ先を、「喪心又は失神状態」あるいは「瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直」を引き起こす可能性のある「深さ」(例えば三島の切創の左端のような深さ4センチ)まで食い込ませてはならないということになる。

YouTube(ユーチューブ)で見ることのできる9分9秒の動画"Yukio Mishima Speaking In English" の中で、三島は武士の美意識について語っている。出所不明の資料だが、登場する人物は三島であり語る声は三島のものであると信ずるにたる。

And in samurai tradition the sense of beauty was always connected with death. And for instance if you commit harakiri, samurai was requested to make up his face by powder or lipsticks in order to keep his face beautiful after his such a suffering death.

("Yukio Mishima Speaking In English"を聴く」)

武士の伝統では、美意識は常に死と結び付いていました。例えば切腹を行う場合、白粉や紅で化粧することは武士の嗜みでした。苦しんで死んだ後の死顔が美しいものであるように、です。(私訳)

三島は「香を用いることも」と付け加えることもできた。身分ある武士の中には、戦に臨み、死に臨み、薄化粧を含め身だしなみを整えることを武士の嗜みと心得る武士もいたであろう。

介錯が用意された切腹の場合、美しい死顔には円滑な介錯が必要であることを、苦痛に喘ぐ暇もなき速やかな死が必要であることを三島は意識していたであろうか。苦しみ、のた打ち回った挙句の死顔は見苦しいものとなりえても美しくあろう筈もない。

三島は己の想像力を手に、苦痛に喘ぐ武山中尉と闘っているように思える。その勝敗や如何。

中尉の顔は生きている人の顔ではなかった。目は凹み、肌は乾いて、あれほど美しかった頬や唇は、涸化した土いろになっていた。ただ重たげに刀を握った右手だけが、操人形のように浮薄に動き、自分の咽喉元に刃先をあてようとしていた。こうして麗子は、良人の最期のもっとも辛い、空虚な努力をまざまざと眺めた。血と膏に光った刃先が何度も咽喉を狙う。又外れる。もう力が十分でないのである。
(河出書房新社『英霊の聲』所収「憂国」94頁)

麗子は、かつてはあれほど美しかったが、いまや変わり果てた良人の身体の隈隈に、生前最後の夫婦の営みの折りにしたようには、接吻することはない。

 

凛々しい眉、閉ざされた目、秀でた鼻梁、きりりと結んだ美しい唇、……青い剃り跡の頬は灯を映して、なめらかに輝いていた。麗子はそのおのおのに、ついで太い首筋に、強い盛り上った肩に、二枚の楯を張り合わせたようなたくましい胸とその樺色の乳首に接吻した。胸の肉付きのよい両脇が濃い影を落としている腋窩には、毛の繁りに甘い暗鬱な匂いが立ち迷い、この匂いの甘さには何かしら青年の死の実感がこもっていた。(同書、.82--83頁)

 

(その二 了)

(その三 に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメントを投稿