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平秩東作 追記

2006-03-07 12:53:57 | その他
もう少し平秩東作のことを。

このひとは享保11年の生まれで西暦では1726年です。
父親は武士であり、故あって、内藤新宿の馬宿を持ち稲毛屋金右衛門
と称します。東作はこの後を継ぎ煙草商になり二代目金右衛門となり
ました。本名は立松懐之でその墓は今でもあります。

漢学・和歌を学び、当時有名だった内山賀邸を通じて太田南畝や
その狂歌連中と知り合い戯作・戯文学・特に、狂歌では著名となり
天明を代表する作家となります。また平賀源内とも交流があり人生
の後半を過ぎてからは、源内とほとんど行動をともにすることが多
かったようです。

平賀源内は薬草学、オランダ医学、戯作、浄瑠璃作者、鉱石物産、
炭焼き、櫛にエレキテルとありとあらゆることに手を出すほどの奇才
とも言うべき起業好き人間で、実際そのための勉学も良く励んだよう
です。元々が武士ですから学問は必至事項です。興行師としての才覚
もありましたしやはり多才と言うべき人物です。

しかしどれも商売になるのにはいつもあと一歩たらずで、すぐに手を
引いてしまいます。目立ちたがりやで一発屋だったのでしょうか。

気が多かったことも確かながらムラッ気ですぐ飽きるというか、
駄目だと思うとすぐに目先を変え他のことに手を出していたようで、
なかなか自分を認めようとしない世間がうとましくなって、ついには
とうとう人を斬るに至るのです。

最後はプライドと自棄が同居しイライラして世の中を見ていたフシも
覗えます。

こうした源内と付き合っていた東作にもどこかヤマっ気があったの
でしょうか。同じような感覚はウマが合ったのかもしれません。
源内と前後して炭焼きに手を出しますが結局は失敗しています。
もちろん資本が無くては炭焼き事業など出来ませんから、源内の線か
あるいは東作が学問を教えていた子女の親、役職のある武士、を通じて
どこからか公金を出させたのでしょう。

 東作と付き合いのあったひとりに勘定組頭の土山宗次郎がいます。
いわばスポンサーで南畝や狂歌仲間にも遊び代を立て替えたりして
いました。この土山宗次郎は花街の女性を見受けしていますので、
相当派手に金を使ったと思われます。後に東作を蝦夷に遣って蝦夷地
松前藩の事情を調べさせていますので、その費用も恐らく土山が公金
から用立てたものでしょう。

このへんも源内と似てどこか一発当てるヤマッ気のような血筋を
東作に感じてしまいますが、これが後になり田沼意次が失脚し寛政の
改革のもと幕府から咎めを受けることに続がります、土山は死罪、
さらには東作の下調べによってその後実行された蝦夷地探検による
開拓計画は立ち消えとなり、田沼意次によって蝦夷地へ派遣された
人間たちの業績は評価されず歴史から消えてしまうのです。

白河藩から江戸幕府の老中になった松平定信による寛政の改革の嵐は
厳しく、恋川春町ら狂歌仲間たちに次々とお咎めが下されます。

世の中に蚊ほどうるさきものは無し文武といふて夜も寝られず


寛政の改革を皮肉った狂歌で南畝が詠んだとされています。

土山や東作と付き合いのあった南畝は自分にも捜査の手が及ぶのでは、
と気落ちしてしまいます。今までを改め大人しくせざるを得ません。

一方、この改革によって学問所が新たに創設され定信は優れた人材の発掘
にも乗り出します。

南畝はこの学問所の試験に合格し優秀な成績で卒業します。しばらくして、
大阪の銅座次いで長崎へ転勤と、今までの狂歌三昧の遊び半分の人生からは
想像も出来ない華麗なる転換を迎えるのです。

長崎では当時来日したロシアのレザノフにも会っていてコーヒーをご馳走
されたことを書き残し、苦くて飲めたものじゃない、と印象を残しています。

この時長崎には、南畝と学問所で同期で、お目見え以上の部で優秀な成績で
卒業した遠山金四郎のお父さん、遠山影元左衛門景普が江戸から赴任して
来ていました。後の長崎奉行です。また後年エトロフ探検で有名になる
近藤重蔵も長崎で勤務しています。当時の幕府にとって長崎は唯一の開港地で
あり南からの輸入品が届くところでしたから、大変重要な場所だったのです。

ちょっと平秩東作から話題が離れてしまいましたが、寛政の改革では
かたや幕府からお咎め、かたや一念発起して学問所で一からやり直し、
かつての狂歌仲間の歩んだ道は寛政の改革を機にはっきりと分かれて
しまったのでした。

歴史に、タラレバは禁物ですが、もし田沼時代がもう少し長く続くことが
出来て、田沼の蝦夷地開拓政策が成功していれば、土山宗次郎も平秩東作も
幕府から業績大として何かしらの褒美を得ていたかも知れません。


なお東作は寛政元年、1789年に没しています。幕府からお咎めを受けて
から3年後のことでした。

この後、寛政の改革は長続きしませんでした。あまりに厳しくしすぎたため
庶民や商人に嫌われていきます。理想を掲げ改革を断行した松平定信も
やがて失脚していきます。

白河の清き流れに魚棲まず元の田沼の濁りなつかし


寛政の改革当時詠まれた狂歌です。


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