ムツ兄の、てげてげ人生日記

シマッチュ(奄美人)のムツ兄が、奄美での「テゲテゲ」(気まま)な暮しを記します。

涙で、運転できなくなりました。

2008年11月26日 23時00分00秒 | うつ病
母は、僕らを、子供の頃から、同年代の従兄弟と比べて、「○○ちゃんは、こうなのに、あんたたちはダメだ」とばかり口にし、集落の人には、6人も子供がいることを恥じるような言葉を言っていました。僕や妹たちは、母に褒めて、愛していると言って欲しくて、従兄弟たちが、牛乳を飲まず、コーヒー牛乳を飲むのを見ては、自分たちは牛乳をすすんで飲み、従兄弟達が野菜や魚を嫌うのを見ては、自分たちは野菜や魚を一生懸命食べました。みんな、母に愛してもらいたかったから、偉いねと認めてもらいたかったからです。僕らは、みな優しい子供たちでした。でも、母親の愛情には飢えていました。
僕は、母と生れ故郷を離れたくて、10歳からは、地図帳ばかり見ていました。どこか外国に行きたかったからです。お陰で、世界中の国々と、その首都を、すらすら言える少年になり、社会や、国語では学年で一番になっていました。そして、中学への進学で、長崎のカトリック系の男子校へ親元を離れて行きたいと言ったのも、母の下を離れたかったからです。そして、大学、社会人と故郷を離れて暮らしました。妹たちも田舎を離れて、内地の学校や職場へと行き、両親の下を離れました。子供たちが成人しても島に戻らないことを、伯母に育て方が悪いと言われると、母は自分の育て方が悪かったと言いました。ある意味で、育て方が悪かったという点は的を射ていますが、それは、子供たちに鞭しか振るわず、飴を与えない母に原因があったのです。僕たちは、母の愛に飢えていて、みんな良い子にならなきゃとばかり思っていました。でも、母は報いてはくれず、結果、地元で生活する事を嫌うようになったのです。
その事を、運転しながら思っていたら、僕はポロポロ涙が溢れて運転ができなくなりました。
家に帰って、母に上記のようなことを話しました。僕や妹たちはみな、貴女の愛が欲しかったのだと。ただ黙って抱きしめて欲しかったのだと。今、ブログを書きながら、また涙が溢れてきました。
僕のうつ病は、いつになったら治るのでしょうか?


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